藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

私の意思。


社会人になって初めて目からウロコが落ちたのは、かのパーキンソン博士の

仕事と遊びは同じである。
という言葉だった。
仕事が好きとか嫌いとか、苦痛だとかやり甲斐があるとかないとか。
そんなごっちゃになっている社会で「これか」と思ったのである。

時は移ろい。
モーレツ経営者も年を取り。
精神論でリーダーシップを取っていくことよりも「よりルール化を」という社会になっている感じがする。
今表向きに「時間など関係なくとことん働け!」と言うリーダーはあまりいない。
むしろ「ブラックじゃないの?」という言葉に怯えるようになってしまった。

 ただ、どうしても、
 「おもしろいから無理をする」ということが、
 過去の遺物扱いされてしまうのはおもしろくない。
 恋人同士が夜の明けるのに気付かないような時間や、
 趣味の模型ができるまでやめられないような時間と、
 同じような夢中の時間が、仕事のなかにはある。

ベンチャー企業なんてどこもブラックだ。
というかそんなことを問う人はそこに存在していないだろう。
働きたくなければ、働かなくていい。
働きたければ働こうよ。

自分はへそ曲がり故か、「人から言われてやる」というのが嫌だった。
けれど「人から望まれて」とか「自分ができていないから」と思うと、もうそれは自発の所作なのに違いない。

ルールの適用世界が違うのだと思う。

どちらも正しいと思っている。
無理をするのも休むのも、自分の意思で選べたらいいと思う。
たまには無理して。
たまには楽して。

・昔の広告だとかデザインの業界では、
 徹夜をするというのはあたりまえの時代があった。
 ある種の徒弟制度に近いようなところがあって、
 集中的に、ある期間にある大きな分量の仕事をすることで
 一人前になっていくのだという考えがあったと思う。

 ぼく自身の若いころにも、徹夜はよくやっていた。
 文句言ったりしながらも、それをする理由は、
 じぶんがおもしろいからだったような気がする。
 あるいは、じぶんが非常事態のなかにあるというような
 ちょっと生意気な選民意識もあったかもしれない。

 いまは、徹夜をしてはいけない、と言っている。
 さらに言えば、週に何時間以上働いてはいけないとか、
 年にどれだけ休まなくてはいけないとかのルールがあり、
 それを守るようにしくみをつくっている。
 ぼく自身のひとりしゃべりの場面などでは、
 結びのことばは、だいたいいつも「じゃ、健康で」だし、
 なにか無理をしてそうな人がいたら、
 どうやってそれをさせないようにできるか考えるのは、
 組織をやっていく上での、大事な仕事だ。
 おそらく、これから先も、
 もっと洗練された身体と精神の「居心地のよさ」を、
 会社として追求していくことになるのだと思う。
 そうそう簡単にできるとは思わないけれど、
 少なくとも志向していくのは、そっちのほうだろう。

 ただ、どうしても、
 「おもしろいから無理をする」ということが、
 過去の遺物扱いされてしまうのはおもしろくない。
 恋人同士が夜の明けるのに気付かないような時間や、
 趣味の模型ができるまでやめられないような時間と、
 同じような夢中の時間が、仕事のなかにはある。

 責任者として「無理をするな」と叱る気持ちと、
 先輩として、「夢中になれよ」と言いたい気持ちは、
 実は根っこのところでは同じだとも思えるのだ。
 仕事する人がすべて「フリーランサー」になったら、
 じぶんの裁量と自己管理で、休んだり無理したりを、
 責任持ってやります、ということになるんだろうけどね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そして、いろいろありつつ「無事是名馬なり」なんだよね。