藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

超保守。現代の総括。

ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか

ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか

糸井さんvsビーター・ティールの講演より。

グローバリゼーションとテクノロジーのこと。

違えていえばボーダレスとイノベーションのこと。

グローバリゼーション」というのは、
「1からnへの拡大」です。
つまり、実際に機能しているものをコピーし、
それを水平に展開することです。
タイプでいうと、グローバリゼーションというのは、
「広げていく進化」だと考えることができます。
一方、「テクノロジー」というのは、
「0から1を生むこと」です。
つまり、新しいことをスタートさせること。
テクノロジーというのは、タイプでいうと、
集中的に「深く掘っていく進化」だと考えています。
(中略)
そして、この100年間について言うと、
1914年から1971年にかけては
テクノロジーは進みましたが、
グローバリゼーションは進んでいません。
逆に、1971年以降は、
グローバリゼーションは進みましたが、
技術というのはそれほど進化していない。

技術の進化がない五十年という指摘。
その結果か、あるいは体質としての今の我われのスタンスをティール氏は指摘する。

「いまの私たちの社会は、
 科学や技術の進化に対して
 非常に敵対的である」
(中略)
しかし、ハリウッドを責めるのは筋違いです。
なぜならハリウッドは、
私たちの広範な文化というものを
いつも映画に反映させるからです。
つまり、私たちの社会は、本質的に、
「変化に対する恐怖」
「未来に対する懸念」に満ちあふれているのです。

先進国という括り全体が変化への恐怖、変質への恐怖に怯えているという。
いつの間にか先進国は老化し、科学や技術の進化がすでに「カウンターカルチャー」でしかないとすれば、今の自分たちの態度を変えるヒントがそこにあるように思ったのだ。

社会のごく一部に、科学や技術の進化を
進めようとする動きがあったとしても、
それは、いまの社会においては
カウンターカルチャーに過ぎません。
さまざまな形で科学や技術の革新が語られていますが、
じつは、いまの社会においては、
科学や技術の進歩は「敵」である。
そんなふうに私は考えています。

引用が多すぎて、何とも申し訳のないエントリーになってしまった。
最後の部分を引かせてもらって、改めて著書に当たってみたいと思う。
なにか新しい気付きがありますように。

先進国(Developed country)というのは、
「発展済みの国」ですから、
テクノロジーの進化は過去に終わっている、
ということを意味しています。
もう新しいことが起こらず、
イノベーションが過去にあった国、
そういったニュアンスを持っています。
(中略)
けれども、そういった考え方には、
意識して反対していかなければならない
と私は思っています。
「先進国」はほんとうに、
発展途上国に対して「発展済み」なのか?
私たちは、もっともっと、
この大きな「逆説的な質問」を
投げかけていかなくてはならない。
考え続けていかなくてはならない。