藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

世の中の捉え方。

日経、冨山和彦さんのコラムより。
東芝上場廃止論は会社を擬人化し過ぎて、それに懲罰的なスケープゴートを求めるのは感情的でしかない。
との指摘は相変わらず鋭い視点である。
でそれはともかく。

会社とはリスクのある事業を長期的に営む法的フィクションに過ぎません。

という一文に驚いた。
もうここ十何年も「会社」「組織」「法人」とは何だろうか、と漠然と思っていた。
法人というくらいなのでそこに人格を持たせる仕組みだろう、とか
組織という多勢の人間が構成する集団の「集団的個性」を表わすものだろうとか思っていた。
ただ代表者や経営陣がいて、中間管理職がいて社員やアルバイトの人がいて、それぞれが同等の責任とか権限でもなく、でも組織の一員としての重みというか、尊厳はみな変わらない…

国だって日本とか中国とかロシア、と言っても構成する民族は多種多様だし、国民とか外交というと国という単位はあるようで、実はその中身ははっきりせず幻想でしかないような…
それが会社とは、「リスクのある事業を長期的に営む法的フィクションに過ぎない」という表現には思わず唸らされる。

「法的フィクション」というところが自分には長年もやもやしていたように思う。
"法治社会のなかでの人工的な枠組み"なのだと考えると、色んなビジネスの話が実にしっくりと来るような気がしたのである。

もっと人間の生物的な、「本来持っている何か」があると思い込んでいたけれど、「ビジネス社会の中のフレーム」だと考えれば合点がいく。
実に目の覚めるような一言に触れた気がしたのであった。

それ、会社病ですよ。
(つづく)
上場廃止にせよ、という声の背景は、想像ができます。それは、上場している会社が上場を廃止されたら、社会的にダメージを被るはずだ、それが懲罰になる、というものでしょう。しかし、東芝カネボウのような名門企業では、上場を廃止されたからといって、本業にほとんどダメージはありません。
 上場廃止が懲罰になるという感覚は、会社をあたかも独立した人格と考える過剰な擬人化幻想から来ています。これはまさに、日本社会に蔓延する「会社病」です。
 会社とはリスクのある事業を長期的に営む法的フィクションに過ぎません。実在するのは、株主、経営者、従業員、取引先、顧客などのステークホルダーと相互の関係性だけです。「落とし前」をつけるには、実在する関係者に対して、有効な処置をリアルかつ合理的に考える必要があります。
 その意味で、上場廃止はまったく無意味な罰則です。不正会計が経営者やガバナンスに起因するなら、その当事者の個人責任を民事、刑事で追及すべき。組織全体の共同責任なら、会社全体を課徴金などで罰すべきです。
 10年前のカネボウ粉飾事件は7人の逮捕者を出し、大手監査法人が解散に追いこまれる大事件に発展しました。しかし、その後も不正会計事件は後を絶ちません。結局、メディア好みの情緒的な「落とし前」が、問題の根幹から目をそらせてしまった。
 私に言わせれば、日本企業のムラ社会の論理による「馴れ合いガバナンス」こそが問題の核心です。東芝も形では革新的なガバナンス体制を取っていたようですが、報道を見る限り、実態は古色蒼然(こしょくそうぜん)たるムラ社会だったようです。
 短期業績にこだわるトップ経営者たち。その背景に権力闘争や財界での地位などの根深い「大人の事情」があり、そのことをムラの人々は皆知っている。そこで無理な決算をする同調圧力が現場に働く……カネボウとまったく同じ構図です。
 今度こそ、このムラの罠から脱するべく、まともな「落とし前」をつけるべきだし、記者たちもそのことを心がけるべきです。