藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

言葉の使い方。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

「言葉は真理を伝えられるのか」というこの一文だけでも難しい。
真理とは何か。
真理もまた言葉で表されるから。
それに解説を加えれば、もう「正確な表現」なんてこの世にはない。
というのも極端な話で。
「大体の輪郭を伝える」というだけなら英語でも中国語でもそう難しいことではない。

ブッダにして悟りを「言葉では伝えきれないからこのまま涅槃へ」と思わしめたくらいだから、自分らに「何でも思い通りに伝えること」なんてできるはずもなさそうだ。

さらに曖昧さは大きな岐路に立つ。

当時の多くの思想は、人間を見えないものに規定される非合理な存在と見ました。例えば、フロイトは意識は無意識に、マルクスは上部構造は下部構造に規定されると考えましたが、アドラーは彼らとは対照的に、人間を自由意志を持った理性的な存在と見ました。

今度は大きな着想の違いだ。
結局「自分」という閉じた心の中で、「どんなスタンスでそもそもいるのか」というあたりが核心じゃないだろうか。
言葉で全てを表現しきるのではなく、あくまで道具。
大事なのはやっぱり気持ちのスタンスだと思う。
(つづく)

誤解だらけのアドラー心理学

哲学者・日本アドラー心理学会顧問 岸見一郎

 最近、書店に入ると、心理学の本が平積みされているコーナーが目立つ。中でも、数多くの類書が出ているのが、「アドラー心理学」だ。ところが、「これらの中にはアドラーの本当の教えを誤解しているものが少なくない」と、哲学者の岸見一郎氏が警鐘を鳴らしている。岸見氏はアドラー心理学ブームを作った『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)の共著者。では、アドラーが本当に伝えたかったのは何なのか。岸見氏が世に広がる誤解を解きほぐす。

言葉は真理を伝えられるのか

  • 岸見一郎氏

 仏陀は菩提(ぼだい)樹の下に座して悟りを開いた後、自分が悟ったことはあまりに深く微妙なので、それを説いたところで理解されず、誤用する人も現れるだろう、それなら、このまま沈黙を守り、直ちに涅槃(ねはん)に入るに如(し)くはない、と考えたのです。

 しかし、ためらう仏陀が、再三再四説得されて説法をしたからこそ、仏陀の教えは誤解されもしましたが、今日まで伝えられることになったのです。

 アドラーは「われわれの科学でさえ絶対的真理に恵まれていない」といっています(『個人心理学講義』)。誰もが誤る可能性があります。それにもかかわらず、少しでも真理に近づく努力は必要だと思います。

 2013年に『嫌われる勇気』が刊行されて以来、アドラーの思想がよく知られるようになりました。

 他方、ブーム後に矢継ぎ早に刊行された類似書籍や、私の本の読者の反応を見ると、誤解されている面も多々あります。以下、誤解されていると思われるいくつかの点について考えてみます。

2016年06月30日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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哲学者・日本アドラー心理学会顧問 岸見一郎

そもそもなぜアドラー心理学は誤解されやすいのか?――自由意志をめぐって

 そもそもアドラー心理学はその基本的な思想が急進的であるがゆえに、誤解を受けやすい宿命を背負っています。議論のはじめに、この点を説明しておきましょう。

 アドラーの功績は心理学を決定論から解放し、人間の尊厳を取り戻したところにあります。人間の行動や今のあり方がすべて本能や過去の経験(トラウマ)などに決定されているという考え方が、尊厳を人間から奪ったと考えたのです。

 モノの運動とは違って、人間の行為は原因によって説明しつくされません。モノであれば手を放せば必ず落下しますが、人間には自由意志があるので、何をするもしないも自分で決めることができるからです。

 自由意志を認めない人はいます。自由意志で何かある行為を選択したように見えても、選択するに至った原因がすべて知りつくされてないだけだ、と。しかし、このように考えるには、自由意志はあまりに自明でヴィヴィッドであるように見えます。

 アドラーは何かによって今の自分のあり方が決定されるとは考えません。自由意志の余地はなく、すべてのことが決められていて、人は変わることができないのであれば、教育も治療もありえないことになります。

 アドラーは、行為だけでなく人生についても、自分の運命を変えられないものと見たり、不幸なままであるとは考えたりせず、「自分は自分の運命の主人である」(『性格の心理学』)と考えました。

 当時の多くの思想は、人間を見えないものに規定される非合理な存在と見ました。例えば、フロイトは意識は無意識に、マルクスは上部構造は下部構造に規定されると考えましたが、アドラーは彼らとは対照的に、人間を自由意志を持った理性的な存在と見ました。

 ところが、アドラーの思想ではなく、人間を非合理な存在と見る考えが、古来、多くの人に支持されてきました。なぜなら、今生きづらいことなどの原因が過去に経験したことや、社会的な諸問題にあると見れば、生きづらさの責任は自分にはないことになるからです。

 アドラーは「患者を依存と無責任の地位に置いてはいけない」といっています(『人生の意味の心理学』)。無責任の地位に置くというのは、自分の選択以外のことに生きづらさの原因を見ることで、本来の責任を見えなくするということです。

 依存の地位に置くというのは、あなたのせいではないのだといって、患者にカタルシスを引き起こす治療者が、患者を自分に依存させるということです。たとえ抵抗する患者がいても、「自分ではわかっていない」といえば治療者が権威者になり、患者を自分に依存させるのは簡単です。

 相手を支配しようとする親や教師や上司、また為政者は、子ども、生徒、部下、国民が自立することを恐れます。人間を合理的存在と見るアドラーの思想は、そのような人にとって脅威になるはずです。

 そこで、アドラーの思想に反論がされるか、他方、急進的な思想を希釈化し、骨抜きにする試みがされます。骨抜きにされるともはやアドラーの思想とはいえなくなります。