藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分の思考ってあるのか

ほぼ日より。

いやぁ、たいていのアイディアというものは、
 いつかの「考えかけ」のものが、
 思わぬ役に立ったということが多い。

「君はどう思う?」「僕の考えはこうだ」

そういう会話の時に、「どこまでが聞いた話で、どこからが自分の考えだろうか」と必ず考えてしまう。

例えば「私の憲法についての意見はですね…」というときに「借り物ではない知識」なんてあるのだろうか。
自分の頭の中は「全部借り物なのじゃない?」という疑問が付きまとう。

どこまでが知識で、どこからが思考か。
まるでAIの話と同じだ。
どこからが知能か?という問題には近々決着がつくかもしれない。
そうしたら自分の中の「知識と思考の問答」について整理ができるかもしれないと思う。

それはともかく。
(つづく)

ほぼ日刊イトイ新聞

・「考えかけ」のアイディアの素みたいなものは、
 忘れないでずっとそのままそこらへんに置いておくと、
 なにかのときに思い出すことになって、
 他の考えやらとくっついたり組み合わさったりして、
 ほんとのアイディアとして羽ばたきだすことがある。

いやぁ、たいていのアイディアというものは、
 いつかの「考えかけ」のものが、
 思わぬ役に立ったということが多い。
 だから、と強気に言うもの申しわけないが、
 ぼくは、「考えかけ」をあんまり片づけないでいる。
 捨てたり片づけたり整理したりすることも、
 まったくないわけじゃないのだろうけれど、
 基本的に、そういうことをせずに散らかしてある。

だってさぁ、「食べかけ」のお菓子やなんかとちがって、
 「考えかけ」は腐らないんだよ!
 いいんだよ、置きっぱなしにしておいて。
 なにか他の「考え」や「考えかけ」の影響を受けてさ、
 醗酵したり色やかたちが変わっていることはあるだろう。
 でも、それは、置いといたら毒になるってものじゃない。
 ずっと置きっぱなしということはあっても、
 じゃまになって生きられなくなるようなことはない。

よく、ぼくは「それ、いつどういうとき考えたんですか」
 というようなことを質問される。
 答えは、もちろん事によりけりだけれど、
 「小学生のころから、ずっと考えていたんだよ」
 「30歳くらいから、ずっと考えてることだよ」
 というようなことがとても多い。
 そのときすぐに「答え」が見つからないことを、
 なんとかかたちにしようとあせらなくても、
 「考えかけ」の状態でゆらゆらさせて捨てずにいるのだ。
 どうして、そういうことをしているかといえば、
 ひとつは「ものぐさ」だから片づけるのがめんどう、
 もうひとつは「しつこい」から考えをやめない、
 というようなことが理由なんじゃないかな。

「考えかけ」を断捨離しちゃダメなんだよ、絶対。
 借り物の「考え」より、自前の「考えかけ」が大事だぜ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
特に、こどもの時代からの「考えかけ」は、宝の山だぞ〜。