藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

思考のアルバム作り。

ほぼ日より。

「考えかけ」を断捨離しちゃダメなんだよ、絶対。
 借り物の「考え」より、自前の「考えかけ」が大事だぜ。

とても大事な「幹」のように自分にとって大事なこと。
仕事とか異性とか家族とか友人とか。
そういうものは「断捨離」しなくてもあまり消えてはしまわない。

けれど、サブカルチャーとか、食べ物とか、趣味とか旅行とか。
気になるサービスとか、ちょっと納得できない出来事とか、美容や健康のこととか。

まだ自分では深まってはいないけど「ちょっと気にして考えみたいこと」を長年ブログの素にして溜めている。
新聞雑誌やwebの記事も多いけれど、ふと日常で感じた「感情の断片」が圧倒的に多い。
「AI、AIと騒ぐけれど、そもそもの知能ってなんなのだ」
「知識と思考の境目はどこにある」
「音楽はどこからが創作だろう」
「音楽の類型は進化しているのか、それとも集束に向かっているのか」

とめどない。
どうでもいいようなそんな「断片」をウェブの雑記帳に書き留めている。
メモの断片はもう何千にもなっているが、それをざっと見返しているとなんとなく「自分の足跡」を見るような気がする。
もう忘れてしまったようなメモも多い。
自分の思考や感情の断片は是非メモしておくといいと思う。

自分だけの心のアルバムみたいなものだ。

ほぼ日刊イトイ新聞

・「考えかけ」のアイディアの素みたいなものは、
 忘れないでずっとそのままそこらへんに置いておくと、
 なにかのときに思い出すことになって、
 他の考えやらとくっついたり組み合わさったりして、
 ほんとのアイディアとして羽ばたきだすことがある。

いやぁ、たいていのアイディアというものは、
 いつかの「考えかけ」のものが、
 思わぬ役に立ったということが多い。
 だから、と強気に言うもの申しわけないが、
 ぼくは、「考えかけ」をあんまり片づけないでいる。
 捨てたり片づけたり整理したりすることも、
 まったくないわけじゃないのだろうけれど、
 基本的に、そういうことをせずに散らかしてある。

だってさぁ、「食べかけ」のお菓子やなんかとちがって、
 「考えかけ」は腐らないんだよ!
 いいんだよ、置きっぱなしにしておいて。
 なにか他の「考え」や「考えかけ」の影響を受けてさ、
 醗酵したり色やかたちが変わっていることはあるだろう。
 でも、それは、置いといたら毒になるってものじゃない。
 ずっと置きっぱなしということはあっても、
 じゃまになって生きられなくなるようなことはない。

よく、ぼくは「それ、いつどういうとき考えたんですか」
 というようなことを質問される。
 答えは、もちろん事によりけりだけれど、
 「小学生のころから、ずっと考えていたんだよ」
 「30歳くらいから、ずっと考えてることだよ」
 というようなことがとても多い。
 そのときすぐに「答え」が見つからないことを、
 なんとかかたちにしようとあせらなくても、
 「考えかけ」の状態でゆらゆらさせて捨てずにいるのだ。
 どうして、そういうことをしているかといえば、
 ひとつは「ものぐさ」だから片づけるのがめんどう、
 もうひとつは「しつこい」から考えをやめない、
 というようなことが理由なんじゃないかな。

「考えかけ」を断捨離しちゃダメなんだよ、絶対。
 借り物の「考え」より、自前の「考えかけ」が大事だぜ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
特に、こどもの時代からの「考えかけ」は、宝の山だぞ〜。