藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

見失わないチカラ。

ほぼ日より。

「おとうちゃん、落語をおもしろくするのには、
 どうすればいいんだい?」
 すると、志ん生さんは、こう答えたのだそうです。
 「おもしろくしねぇことだ」。

さすが落語。
芸の真髄が込められている。
面白くなることは結果であって目的ではない。
面白いのは経過であって結果ではない。

「それ」が目的になるとあざとい。
テレビのお笑い番組がどうしてもつまらないのはこのせいだ。

そして。
同じことは他のあらゆることに通じて言える。
モテたい。
儲けたい。
目立ちたい。

全部「それ」を目的にすると失敗する。

みんなそれじゃない目的があるのだった。
そういうことなのだ。

ほぼ日刊イトイ新聞

・これは、何度も人には話したし、
 「ほぼ日」でも言ったこともあるんですけれど、
 また、いま伝えたくなっちゃったので、また書きますね。

まず、この話を書いたのは、柳家小三治さんでした。
 小三治さんが、つきあいのある古今亭志ん朝さんから
 聞いたという話なんです。
 志ん朝さんが、父である古今亭志ん生さんに訊きました。
 「おとうちゃん、落語をおもしろくするのには、
 どうすればいいんだい?」
 すると、志ん生さんは、こう答えたのだそうです。
 「おもしろくしねぇことだ」。
 志ん朝さんは、そうかぁと思わされたわけです。
 で、それを小三治さんに言って、
 小三治さんも、そうかぁと考えさせられた、と。

どうやっておもしろくするか、ではなくて、
 「おもしろくしよう」ということを、しない。
 わかったようで、わからないことなのですが、
 ずっとそのことをこころのどこかに置いておくと、
 ちょっとずつ、わかったような気になってきます。

応用編も、いっぱいあると思うんです。
 「どうしたら、モテるようになりますか?」
 「モテようとしねぇことだ」
 どうでしょう、その方面の方、そんな気もしませんか。
 「どうしたら、もうかるようになりますか?」
 「もうけようとしねぇことだ」
 まさか、そんな‥‥という反応もありそうですね。
 「モテようモテようとしねぇことだ」
 「もうけようもうけようとしねぇことだ」
 と、ちょっとテーマを強調したらどうでしょうか。
 「おもしろくしようおもしろくしようとしねぇことだ」
 というのと同じですよね。

どうして「おもしろくしよう」と思うのか。
 「モテよう」と「もうけよう」と思ったのだろうか。
 なんか、そこのところを問い返されているんじゃないか。
 どうも、ぼくにはそんなふうに思えるんですよね。
 「もともとの目的は、そこだったのかい?」と、ね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
どうして、それを問題にしたのか、そう答えたのかが大事。