藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

全ては試合。

吉本隆明をして、20世紀の世界で最大の思想家だ、という人もいる。
その吉本さんが、さらっと「(自分は)フーコーとかのチャンピオン級とは違って軽量級の8位くらいにものです」という。
そして情けないことに、その例え話の意味は理解できても、それを実感することはとても困難だ。

思えば、プロ同士の、しかも世界ランカーたちの対峙を見ている、ということはどんな競技も芸術も「見ている側はほとんど分かっていない」のかもしれないと思う。

ある意味仕方ない。
で、それはともかく。

「だけど、いい試合はお見せできるという、
敗けるにしても、いい試合したじゃねぇかっていう、
相手がだれだとしてもね、そういう自信はありますね。」
おもしろそうに、そう言った。

自分たちの日々の生活って、やっぱりどこか「試合」なのだろうか。
勝ち負けがパーンとはっきりしなくても、毎日の自分たちの生活の中の「応酬」というのは試合であって。
そしてそこには、(ひょっとして自分たちも含めて)観客が必ずいて。
どんなヘボいアマチュアでもアマチュアなりの。
セミプロならそれなりの。
そしてプロやトップアスリートは実に華があって。

自分たちの仕事とか、日常の家庭の人間関係とかって実は全部「試合って」いるのかもしれないと思った。
吉本さんに聞いてみたら笑われるだろうか。

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

吉本隆明さんが、よもやま話のなかで、
少年のような顔と口ぶりで、こう言ったことがあった。
「じぶんのやっていることは、ボクシングで言えばさ、
世界の、バンタム級8位ぐらいだと思うんですよ。
フーコーだとか、そういうチャンピオン級とはちがって、
軽量級の、そうだなぁ、8位くらいのものです。」
謙遜という感じではなくて、そう言った。
そして、すぐに続けて、
「だけど、いい試合はお見せできるという、
敗けるにしても、いい試合したじゃねぇかっていう、
相手がだれだとしてもね、そういう自信はありますね。」
おもしろそうに、そう言った。

世界、である。だが、1位でも2位でもなく8位である。
そして、必ずいい試合はするという自信はある、と。
なんだか、愉快な自己批評だなぁとぼくは思って、
そのときの吉本さんの表情は、たまに思いだす。

このところしばらく、いろんな土地で、
たくさんの強者に会ってきたじぶんのことを、
ちょっと俯瞰的に見たら、これも、
たくさんの試合をしてきたように思えた。
吉本さんのような、世界のランキングには関係ないけど、
ぼく自身のことも、軽量級のボクサーのように思えた。
いま、今月になってからのスケジュール表をながめたら、
本気の試合みたいな日が続いている。
大阪に出かけて、モンベル創業者の辰野勇さんと対談。
佐世保で、ジャパネットの高田明さんと対談。
翌日には作家の佐藤正午さんと対談。
横尾忠則さんと河口湖に合宿という二日間。
京都に行き、任天堂宮本茂さんと親しく真剣な雑談。
東京で、「ななつ星」のJR九州・唐池恒二さんと対談。
初めてお会いする人も含めて、たいへんな強豪ぞろいだ。
こちらのランキングなんか、番外かもしれないけれど、
どの日もどの試合も、なんとか試合は成立したと思う。
じぶんでじぶんに言うけれど、ほんとに自慢ではなく、
これだけ次々に試合をやっていたら、
吹けば飛ぶような蝿や蚤のような軽量の身でも、
ほんのちょっとずつでも強くなるかもしれないな。
相手の強い選手たちと、試合をできる運と縁に感謝する。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ほぼ日の学校」、いよいよ!ここもすごい競技場になる。