藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

苦難あらばこそ。

ほぼ日より。
だいたい、何年も生きていると「何かに詰まる」ということは普通に起こる。
もうそれは「あらゆることがきっかけで詰まる」と言ってもいいくらい自分たちは詰まる。
要するに悩んだり挫折したり諦めようとしたり周囲に当たったり酒を飲んだりする。

どうすれば、視点を変えられるのか、
どこから手をつけていったらなにかが見えてくるのか、
(中略)
「アイディアで突破する」ことが不首尾に終わると、
より切実に食っていけないような気がするのだ。

若い人が感じる尾崎豊的な閉塞感とはまた違う。

「何をすればいいのか」ではなく「することはあらかた決まっているけれどうまくいかない」という感じ。

で結局は。
結局は「何とかなるまで考え続ける」以外に方法がない、ということに年を取ると気づいてくる。
これが年寄りの老練だろうか。

「まだ何の方策も出口も見えていない」くせに、ひたすらじっと考えるという道を選ぶのが年寄りだ。

ずーっとその泥沼に沈み続けていると、いつか「見えてくる瞬間」が来る(ことが多い)。
糸井さんは"「あ、わかったよ」という瞬間がきたときの歓び!"と表現しているけれど、そういう「延々と素潜りを続けて地上で呼吸するとき」のようなことが、人生では繰り返される。

辛いと言えば辛いが、それがないと人生なんて抑揚がなくてつまらないような気もする。
こういうのがマゾヒズムなのだろうか。

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・よく、原稿が書けないときのことを、人びとは語る。
書けなくて逃げ出したくなるということについて、
ツイッターなんかを使って)読んでいるものに、
「なんだか、書けないっておもしろいじゃないか」
と思わせるくらいの表現で、それを伝えたりしている。
そんなところで恐怖の私小説を書いているくらいなら、
望まれている本番のほうに手を付けろよ、と思うけれど、
そっちの「本番」というやつが書けないから、
余計なことで時間をつぶしているというわけだ。

ぼくは物書きという立場にないので、
書けない書けないと言うほど、書く仕事をしていない。
でも、書くにかぎらず、なにか「突破するアイディア」を
要求されるような局面は、よくある。
そのまんまじゃダメだ、と、じぶんでも思っていて、
かといって、それをひっくり返したりずらしたりしても、
行き詰まり感がぬぐい去れないというような場合、
「突破させるよ!」と、ぼくは胸を叩いたりしてみる。

どうすれば、視点を変えられるのか、
どこから手をつけていったらなにかが見えてくるのか、
いつになったら天から光に包まれた女神が降臨するのか。
皆目わからないくせに、「おれ、考えてくるよ」とね、
弁当でもつくってくるよと同じくらいの口調で、
言ってしまったのは、もちろんじぶん自身だ。
そして、さらに、おれの上司であるおれは、
「ああ、そうしてくれ。必ず突破するんだぞ」と、
へっちゃらで言ってくれるのだ。鬼か。

アイディアが出ないというのは、
原稿が書けない以上に切実につらいものである。
書くことができないのも困ることは多いけれど、
「アイディアで突破する」ことが不首尾に終わると、
より切実に食っていけないような気がするのだ。
じっと固まったまま考え続ける、歩きながら考える、
いっそいったん寝る、風呂に入ってばくぜんとする、
そんなことを、ミックスしてやりながら、やがて
「あ、わかったよ」という瞬間がきたときの歓び!
いやその、昨日は早朝にそれがきたせいで、
いま寝不足であるため、今夜はまだ来てもらえてない。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
親父ばかりの会議に芦田愛菜が入ってくるのがアイディア。