藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

実は技術。

日経プロムナードより。
コラムを読んで「そもそも芸術って何」という疑問がムクムクと。
ブリタニカの解説はとてもいいけれど、少し難解だ。

語学辞書レベルでは。

特定の材料・様式などによって美を追求・表現しようとする人間の活動。
および、その所産。
絵画・彫刻・建築などの空間芸術、音楽・文学などの時間芸術、演劇・映画・舞踊・オペラなどの総合芸術など。

少し表面的だ。
もう少し。
美学事典より。

芸術の定義
人間が自らの生と生の環境とを改善するために自然を改造する力を、広い意味でのart(仕業)という。
そのなかでも特に芸術とは、予め定まった特定の目的に鎖(とざ)されることなく、技術的な困難を克服し常に現状を超え出てゆこうとする精神の冒険性に根ざし、美的コミュニケーションを指向する活動である。

『美学事典』 著者:佐々木健一 出版社:東京大学出版会

多分これだ。

予め定まった特定の目的に鎖(とざ)されることなく、技術的な困難を克服し常に現状を超え出てゆこうとする精神の冒険性に根ざし…

記事で東さんが言っていることも全く。
ただ「芸術という技術をより高めることを目指す」ということが芸術。
それを目指すのが芸術家。

よそ者がどう、とか。
異端がどう、とか。
既存の礼式や品格がどう、とか関係ない。

芸術は技術と同質なのだ、と言われるとハッとする部分がないだろうか。
自分には目から鱗でした。

よそものが作る地域アート 東浩紀
 友人の美術評論家黒瀬陽平がキュレイターとなって、いま福島県いわき市で「百五〇年の孤独」といういっぷう変わった美術展が行われている(金土日祝のみ公開、28日まで)。常磐線泉駅近くの喫茶店で手紙をわたされ、指示どおりに町を歩くと、150年前、明治維新時に日本全土で吹き荒れた「廃仏毀釈」の傷跡(きずあと)が見えてくるというしかけだ。

 去る6日、ぼくも同地を訪れた。泉駅周辺のいわき市南東部は、かつて泉藩と呼ばれる小藩だった。同藩は廃仏毀釈がとくに激しく、すべての寺院が破壊された。いまも同地にはほとんど寺院がなく、葬儀も独特だという。黒瀬はその状況を「復興の失敗」と形容する。東日本大震災が念頭に置かれているのだろう。

 美術展である同展がその「失敗」にどのような答えを出したのか、そこはネタバレになるので書くことができない。とりあえずは、なるほど、アートにはこういう役割もあったかと感心したとだけ記しておく。興味のある読者はぜひ現地を訪れてほしいが、それに劣らずぼくが感銘を受けたのは、同展が、いま話題の「地域アート」の新たな可能性を示している点に対してである。

 いまは地域アートの時代である。全国各地で、自治体名を冠した芸術祭が毎月のように行われている。今年はその代表格である「大地の芸術祭」(越後妻有アートトリエンナーレ)も開催される。現代美術の集客力や問題発見力が評価されたかたちだが、問題もある。地域アートは行政や住民の支援を受けて成立するものなので、表現にどうしても制約が出る。自然や食などの魅力を強調した優等生的な作品が並びがちだ。

 そんななか黒瀬の試みはきわだっている。彼は定期的にいわきで美術展を開催していて、今回で3回目となる。しかし彼自身は福島出身ではないし、在住でもない。招かれたわけでもない。制作費も自分で調達している。つまりは、完全な「よそもの」が「勝手」にやっている地域アートなのである。それゆえ当初は警戒され、住民との衝突もあったという。

 けれども今回の展示では、そんな彼の「よそもの」ならではの視点こそが、忘れられた郷土史を発掘し、150年前と現在をつなげることを可能にしている。廃仏毀釈郷土史で好まれる話題ではないし、「復興の失敗」などと言われては住民もいい気分はしまい。もし本展が行政の支援を前提に構想されていたのなら、企画書の段階でいろいろ表現を変えられていたことだろう。けれども、結果として展示ができてみれば、住民にも広く関心をもたれ、支持を得ている。大晦日(おおみそか)のイベントは地方紙で報道もされた。企画の段階では不必要な挑発にしか見えないものも、表現が完成すればふっと腑(ふ)に落ちる、芸術ではそういうことがありうるのだ。

 現代は地域アートの時代であるとともに、「当事者」の時代でもある。うちの村で展示をするならまずは村の住人の要望を聞け、とあたりまえのように言われる時代である。

 けれども、ときにひとは、自分が本当に必要としているものを自分でもわかっていないことがあり、本来芸術とはまさにそのような逆説に関わるものなのだ。「よそもの」に「勝手」にさせないと、でてこない表現というのもあるのである。

(批評家)