祖父がよく「子供にはうまいものを食べさせておかないと、つまらぬ大人になる」と言っていた。
ファストフードや調味料に慣れて「微妙な食材の味」が分からなくなることを懸念していたのだろう。
で今の自分は、毎日美味しいものを求めているようだが、本当にそれが目的なのだろうか?と屢々(しばしば)思う。
間違いなくうまいものが食べたいなら高級店に行けばいいのに。
で結局は「居心地×味」なのだと思う。
お値段は、あまりに高いと問題だが数千円のことなら構わない。
けれど、安かろうが、美味しかろうが「大混雑」している店では落ち着かない。
「二時間制です」というお店も気疲れする。
大体は二時間もいないのだけれど。
だから「空いている」、それでいて「まあまあの料理を出してくれる」というのが貴重な条件になる。
いつかは高級店で、くつろいで、値段を気にしないような生活ができるだろうか。
性分として、ちょっと無理かもしれません。
糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン
・「うまいもの」を、よくわかるようになるためには、
「うまいもの」を、よく食べて、
「うまいもの」とはこういうものかということを、
じぶんのからだで知る必要がある。これだけのことだから、簡単そうだけれど、
そうでもないように思う。
どれだけ、「うまくないもの」を食べても、
「うまいもの」が、わかるようにならない。
高いとか安いとかでもない、新鮮かどうかでもない、
実は、まごころがこもっているか、なんてことでもない。
「うまいもの」は、うまいものだ。
一度出合えた「うまいもの」を大事にしたい。
そんなにしょっちゅうでなくても、巡り合いたい。
たくさんの「うまくないもの」を、どれだけ大食しても、
「うまいもの」から遠ざかるばかりのように思う。「いいもの」というのも、同じだと思える。
「ろくでもないもの」を大量に手に入れても、
「いいもの」のことはわかりゃしない。
いやぁ、気をつけないとそういうことになる。
「ろくでもないもの」と知っていながら、
その「ろくでもなさ」を愛でるならいいのだろうけれど。「いい人」に、たくさん会えていたら、
「いい人」というもののありがたさうれしさを知る。
やがて、「いい人」から会いたいと思われるだろう。
「くずみたいな人」にどれだけ会っても、それは、
「まずいもの」を求めて食いだおれるようなことだ。じぶんの首を絞めてるようだけれど、
「いい文章」を読んでいたら、「いい文章」がわかる。
「わるい文章」だとか「つまらない文章」だとか、
そんなにたくさん読んでもしょうがない。
まったくじぶんのことを棚に上げて言うのだけれど、
食べものにおける「うまくもないもの」
みたいな「テキスト」が、
インターネット以後、たくさん出回り過ぎている。
ああ、ごめんなさいごめんなさい。
そう言いながら、もうじき二十年も書いてきている。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
もっと古典といわれるものをお読みなさいとよく言われた。