藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

二十代にお勧めします。

ほぼ日より。
自分にもあった。
手帳がびっしり埋まって、アポだらけ。
何か充実した気になっていたあの頃。

今はもうない。
けれどそれどころではない気がする。

「スケジュール」は、あなたに命令をしている。

学生時代のスケジュールは。
お勉強することだ。
趣味とか習い事をしてもいい。
かなりタイトに詰まっているからあんまり自由度がないというか、つまりあまりそれについて考えなくていい。
そして社会人になると自由度は∞(無限)になる。
「目標を持つ」とか「夢を実現する」とかいうよりも切実じゃないだろうか。

「人生のスケジュールどうする?」と言われると言葉に詰まる。
どうすんねん。

スケジュールなんて立てたってその通りに行かないし、計画そのものが変わったりもする。
けれど、一度二十歳くらいで十年刻みに「これからどうする?」と考えてみたほうがいい(と思う)。
だって二十歳でも「90歳までに7ハコ」くらいしかないぞ。
俺の場合は「あと4つ」。
悪魔と取引している気分になる。
「お前の願いはあと4つ」
「さあ言ってみろ」と。

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・じぶんの「ほぼ日手帳」に「スケジュール」がない、
というさみしさを訴える人がいる。
「じぶんが、だれからも求められていない」
ということを、感じてしまうのだという。
「スケジュール」がいっぱいであると、
誇らしげに言う人もいる。
「わたしは、たくさんの人に求められている」
ということを自慢に思うのかもしれない。

ぼくも、ある時期、そういう気持ちがあった。
さみしさを感じた経験もあったし、
誇らしげな気持ちを持ったおぼえもある。
「超売れっこですもんね」「いやいや、それほどでも」
なんて会話を、たしかにしていたようにも思う。

しかし、いまになって、気づいてしまった。
「スケジュール」がないということも、
「スケジュール」がいっぱいあるということも、
実はどちらも同じ意味を持っている。
じぶんが「求められている」ということの主人は、
実はじぶんじゃなくて、求めている側の人なのである。
さみしくなるのも、自慢に思うのもじぶんだけれど、
それはどちらも他人しだいで決まるものなのだ。
「スケジュール」とは、基本的に受け身なのである。

「スケジュール」というのは、
他人との約束を書きとめたものである。
ひどい言い方のようだけれども、
「あなたをその時間にしばりつける約束」だとも言える。
だから、仕事の「スケジュール」がいっぱいだとしたら、
それは、「求められている=命令されている」
ということでもあるのだ。
「3時から何某さんに会って3時20分に誰それと会議だぞ」
と、「スケジュール」は、あなたに命令をしている。
それによく応えられるじぶんは、たしかにエライけど、
それでさみしがったり自慢したりすることじゃないよね。

じぶんで、「こうしたい」ということを思いつくか。
じぶんを主人にした「たのしみや思い出」を、
のびのびと描けることが、大切なことなんだろうなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「売れっこ」とは、走り回らされる着ぐるみのアイドル。