藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

故人からのメール。

3・11後の数々の霊体験をまとめた記録。
亡くなった兄や子供からのシグナルに、思わず胸が詰まる。
幽霊でもいい、そばにいて。自分もそう思った。
著者の奥野氏は言う。

3年半にわたる取材を通してわかったこととは何か。
「最初は気づかなかったのですが、霊体験とは『グリーフケア』(悲しみのケア)ではないかと思います。
グリーフケアの『ケア』とは、『セルフケア』の『ケア』です。
自分がいちばん納得する物語を創(つく)り、自らをケアする行為ではないでしょうか」と指摘。

幽霊は、つまり自分自身が「自分の中」に作り出し、自分の精神を癒している作業だというルポライターのコメントには説得力がある。
さらに言う。

「人は物語を生きる動物です。
最愛の人を失ったとき、遺(のこ)された人の悲しみを癒やすのは、その人にとって『納得できる物語』です。
納得できる物語が創れたとき、遺された人は初めて生きる力を得る。
霊体験とは、断ち切られた物語を紡ぎ直すきっかけなのではないかと思います」と語る。

自分たちは「物語」を生きている。
他人にとっても自分が物語になる。
もちろん、自分が生きる自分の物語も大事にしなければならない。

大宅賞作家が記録した3・11後の「霊体験」
読売新聞メディア局編集部 伊藤譲治

 東日本大震災で家族を失った人たちの不思議な体験を記録した『魂でもいいから、そばにいて 3・11後の霊体験を聞く』(新潮社)が注目を集めている。2月の刊行から約5か月間で10刷と版を重ね、計4万1000部に達している。著者は、大宅壮一ノンフィクション賞も受賞しているノンフィクション作家の奥野修司さん(69)。ノンフィクションの題材にそぐわない「霊体験」を、なぜ選んだのか。取材や出版の経緯などについて奥野さんに聞いた。

死後、兄から届いたメール…熊谷常子さんの体験

  • (写真はイメージです)

 多いのは、携帯電話にまつわる不思議な話だという。たとえば、岩手県陸前高田市の熊谷常子さん(60=年齢は取材時)のケース。

 3人きょうだいの熊谷さんは、兄の小友利美(としみ)さん(享年56)を津波で亡くした。1歳違いで、双子のように育った兄だった。利美さんは震災の年の1月から盛岡市の岩手医大に入院。2月末に初期のALS(筋萎縮性側索硬化症)とわかり、リハビリ以外に治療することはないと言われ、地元の高田病院に転院した。3月11日は五十数日ぶりに、自宅に一時退院していた日だった。

 利美さんの遺体が確認されたのは震災から約3か月半後の6月30日で、津波で流された母屋の中から見つかった。発見されたのは夕方の午後5時を過ぎていたため、翌7月1日に死亡届を出すことになった。

 常子さんは従妹(いとこ)と一緒に市役所に向かったが、不思議な体験をしたのはこのときだったという。

「朝八時半でした。役場で死亡届を書いているときにメールを知らせる音が鳴ったんです。従妹が『電話だよ』と言ったので、『これはメールだから大丈夫』と言って、死亡届を書き終えて提出しました。そのあと受付のカウンターでメールを開いたら、亡くなった兄からだったんです。
《ありがとう》
 ひと言だけそう書かれていました。
『お、お兄ちゃんからだよ』
『ええ、だってぇ……』
 私も従妹もどう言葉にしたらいいかわからず、そこで茫然(ぼうぜん)と立ち尽くしていました」

(「兄から届いたメール《ありがとう》」から)

 7月4日の火葬の際に兄の友人たちに兄の最後のメールを見せようと思って携帯を開いたら、メールは消えていた、という。

おもちゃを動かす3歳児…遠藤由理さんの体験

 おもちゃにまつわる不思議な話もある。

 宮城県石巻市の遠藤由理さん(42=年齢は取材時)は、津波で3歳9か月の長男・康生(こうせい)ちゃんを失った。康生ちゃんは目がクリクリとした、とても愛らしい子どもだった。震災から約1か月後、遺体は見つかった。震災後、遠藤さん一家は「みなし仮設住宅」に住んでいたが、不思議な体験をしたのは、震災から2年たった頃。「康ちゃん、どうしてるんだろ。会いたいなあ」という思いが頂点に達したときだったという。

「二〇一三年のいつでしたか、暖かくなり始めた頃でしたね。あの日、私と中学生の娘と主人と、震災の翌年に生まれた次男の四人で食事をしていたんです。康ちゃんと離れて食べるのもなんだから、私が祭壇のほうを振り向いて、
『康ちゃん、こっちで食べようね』
 そう声をかけて『いただきます』と言った途端、康ちゃんが大好きだったアンパンマンのハンドルがついたおもちゃの車が、いきなり点滅したかと思うと、ブーンって音をたてて動いたんです」
 (中略)
『康ちゃん、もう一回でいいからママにおもちゃ動かして見せて』
 心の中でお願いしたんです。そしたらまた動いたんですよ。
『康ちゃん、ありがとう』
 こんな近い距離で私たちを見てるんだ。そう思ったとき、昔から私に『笑って、笑って』とひょうきんな顔をしたのを思い出しましてね。そうだ、私も笑わなきゃだめだ、頑張らなきゃだめだと思ったのです」

(「『ママ、笑って』――おもちゃを動かす三歳児」から)

 同書にはこのほか、夫や父母、孫など、亡き人との「再会」ともいえる16の物語が収められている。

 奥野さんが被災地の「霊体験」を聞き取ろうと思い立った理由は、何だったのか。

きっかけは緩和ケア医・岡部健さんとの出会い

 奥野さんは1948年、大阪府生まれ。2005年に出版した『ナツコ 沖縄密貿易の女王』で、大宅壮一ノンフィクション賞講談社ノンフィクション賞をダブル受賞した。『ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年』『心にナイフをしのばせて』などの著書もあり、昨年度まで大宅賞の選考委員(雑誌部門)も務めたベテラン作家だ。

 そんな奥野さんが、「霊体験」という、ノンフィクションにはなじまないテーマを選んだのは、宮城県の医師・岡部健(たけし)さんとの出会いがきっかけだった。岡部さんは2000人以上を看取(みと)った在宅緩和医療のパイオニアで、震災の翌年、奥野さんは岡部さんにインタビューした『看取り先生の遺言』を書くため、仙台市の自宅を毎週のように訪れていた。岡部さんに胃がんが見つかり、余命10か月と宣告されながら、会ったときはすでにその10か月が過ぎていた。

 岡部さんとさまざまな話をする中で、奥野さんが注目したのは「お迎え」という現象だった。「お迎え」とは、死の間際に、すでに他界している父や母の姿などを間近に見る現象で、医学的には譫妄(せんもう)(意識レベルの低下による認識障害)や幻覚とされる。「お迎えって信じますか?」とたずねたところ、岡部さんはじろっとにらみ、こう言ったという。「お迎え率って知らねえだろ。うちの患者さんの42%がお迎えを経験してるんだ。お迎えを知らねえ医者は医者じゃねえよ」と。

「被災者の2割が幽霊を見た」とも

 当時、被災地では「幽霊を見た」という話がたくさんあった。被災者の2割が見ている、と岡部さんは知り合いの医師から聞いたという。「2割といえば大変な数だ。これはお迎えと同じだ。きちんと調べたほうがいい」と提案されたものの、奥野さんは気乗りがしなかった。ノンフィクションのテーマとして、検証できず、再現性がないものはなじまないと考えたからだ。

 それからしばらくして、こんな話もあると岡部さんが語った老婦人の話が奥野さんの心を揺り動かした。

 石巻のあるおばあさんが、近所の人から「あなたのところのおじいちゃんの霊が十字路に出たそうよ」と聞き、「私もおじいちゃんに会いたい」と、毎晩その十字路に立っている――というものだった。「それまでは、『幽霊』を見たら怖がるものとばかり思っていましたが、家族や恋人といった大切な人の霊には、怖いどころか何度でも会いたいと望んでいたのです。ここには『家族の物語』があり、『霊』をめぐる家族の物語を書いてみたいと思ったのです」と振り返る。

 岡部さんに背中を押されるようにして、奥野さんはついに「霊体験」の取材をする決意を固める。それから3か月後の2012年9月、岡部さんは62歳で亡くなった。
「一人に3回以上聞く」を取材ルールに

 聞き取り取材は12年の10月頃から始めた。当初は都市伝説のような「幽霊譚(たん)」ばかりで、「霊体験」を証言してくれる人が現れたのは、取材を始めて1年くらいたってからだった。

 異色のテーマだったため、「一人の語り手に3回以上話を聞く」という取材ルールを自ら設定した。「事実かどうか、自分を納得させる理論が必要だった。長年この世界でやってきたので、3回会えばその人がウソをついているかどうかはわかるだろうと思いました」

 最初はただ話を聞き、2回目になって、初めて質問を口にした。「1回目はひたすら聞くだけです。普通は3時間ぐらいですが、もっと聞くときもある。お昼ごろから始め、夕方になっても終わらず、食事しながらまだしゃべっていた、というケースもありました。2回目で最初に聞いた話を整理して、不足部分や疑問点などを聞き返す。3回会うと、けっこう親しくなっているので、それまでしゃべれなかった部分も聞けるようになる」という。

話すことができなかった「霊体験」

  • 岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」の前で黙とうする人たち(2016年3月11日撮影、※本文とは直接関係ありません)

 会って驚いたのは、霊体験を親しい人以外、誰にも話していなかったことだという。「話さなかったのではなく、話すことができなかったのです。語ることで、死者とともに生きようとしているんだと思いました」

 トータルで約30人から取材し、そのうち18人の体験を取り上げた。体験談は原則として実名にした。「家庭の事情で2人だけ仮名にしましたが、あとは実名です。原稿はすべて事前に、当人に見せました。モノローグのストーリーなので、あとで違っているといわれるのは困るので」

 東日本大震災阪神大震災と比べると、霊体験がきわめて多いのだという。「知り合いにも調べてもらったのですが、阪神大震災ではほとんど聞きません。なぜかはわからないが、それぞれの地域の宗教文化の違いなのかもしれない」と推測。「『ナツコ』の取材の際、沖縄戦でジャングルを逃げ惑った人たちが、亡くなった親や兄弟の霊に導かれ、助けられたといった話をたくさん聞いた。沖縄にはユタがいるし、東北にはイタコやオガミサマがいる。沖縄と東北の宗教的な背景が似ているからかもしれません」と語る。

「死者と生きる」…文芸誌「新潮」に連載

 奥野さんが取材を進めていた15年の1月、奥野さんが取り上げられた記事をインターネット上で偶然見つけたのが文芸誌「新潮」の矢野優(ゆたか)編集長(52)だった。「被災地で幽霊話を取材」という見出しが付いた宮城県の地方紙・河北新報のインタビュー記事で、奥野さんが「被災地で犠牲者の霊を見た家族や知人から聞き取りを進めている」という内容だった。

 矢野さんは、奥野さんが1995年に新潮社から出版したノンフィクションのデビュー作『ねじれた絆』の担当だった編集者。久しぶりに目にする奥野さんの記事を読んで強い刺激を受け、すぐに連絡をとった。「奥野さんの書くものは、『想像力と言葉』の本質に関わる、とても重要な作品になると思った。何枚でもいいし、何回でもいいから書いてほしいとお願いした。制約はつけなかった」と振り返る。

 奥野さんの作品は「死者と生きる――被災地の霊体験」というタイトルで、震災から5年目にあたる16年の「新潮」4月号に発表され、その後、9月号、10月号に計3回連載された。矢野さんは、「心がへし折れるようなことがあったとき、失われたものを回復しようという精神の営みが人間にはあり、再会という物語を生むんだということを奥野さんの作品は伝えている。これは、奥野さんという書き手、ノンフィクションというアプローチでしかできなかったことだと思う」と評する。

霊体験とは「グリーフケア

  • 『魂でもいいから、そばにいて』(左)と「死者と生きる」の連載1回目が掲載された「新潮」2016年4月号

 3年半にわたる取材を通してわかったこととは何か。「最初は気づかなかったのですが、霊体験とは『グリーフケア』(悲しみのケア)ではないかと思います。グリーフケアの『ケア』とは、『セルフケア』の『ケア』です。自分がいちばん納得する物語を創(つく)り、自らをケアする行為ではないでしょうか」と指摘。「人は物語を生きる動物です。最愛の人を失ったとき、遺(のこ)された人の悲しみを癒やすのは、その人にとって『納得できる物語』です。納得できる物語が創れたとき、遺された人は初めて生きる力を得る。霊体験とは、断ち切られた物語を紡ぎ直すきっかけなのではないかと思います」と語る。

 『魂でもいいから、そばにいて』は、「新潮」の連載と別冊現代「G2」第19号に掲載した「被災地の奇跡」をまとめ、「春の旅」「夏の旅」「秋の旅」という構成にした。これから、残る「冬の旅」を書いて霊体験をめぐる旅を完結させたい、という。

 「『霊体験』そのものは事実かどうか証明できませんが、体験した当事者にとっては『事実』です。彼らの体験を非科学的と否定せず、普通に受け止める社会になってほしい。人間は合理性だけで生きているのではない。非合理的な存在でもあることに気づいてほしいと思います」

 1万8000人を超える死者・行方不明者を出した東日本大震災から6年。被災地に、7度目のお盆が間もなく訪れる。

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プロフィル
伊藤 譲治( いとう・じょうじ )
 読売新聞編集局配信部兼メディア局記者。文化部次長、紙面審査委員(文化面担当)を経て、昨年6月から現職。文化部時代は教育、読書・出版、放送などを担当。
2017年08月10日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun