藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

りんごは青いままで。

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安藤忠雄さん
*[次の世代に]挑戦するということ。
安藤さんといえば「反骨と挑戦の人」。
それを「七十を超えて身体で示す」ところがなんとも言えない凄みである。

目標と希望があれば、何歳になっても青春です。

 

まだ五十代の自分では資格がないが、80代になってもこう言いたいものだと思う。
年を取るならこういうふうにありたい。
自分の挑戦はこれからなのだと思う。
 
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永遠の青春を走る――失敗を恐れず、ハンディを力に変えて

1/27(日) 12:18配信
 帰り際、小さな青いリンゴの置物をもらった。そういえば事務所にも大きな青いリンゴが飾ってあった。
 
「若い頃、サミュエル・ウルマンの青春の詩と一緒に、サントリー元会長の(さじけいぞう)さんにこう言われました。お前は面白い人間やから可能な限り青春を走れって。リンゴは青なかったらいかん。立派に赤く熟したら食べられてしまうか落ちるだけ。目標と希望があれば、何歳になっても青春です」
 
1941年生まれの青春真っ只中。「まだまだやで」という声が、もらった小さなリンゴの中から毎日聞こえてくるのである。
▼(あんどう・ただお)
1941年、兵庫県生まれ。79年、「住吉の長屋」で日本建築学会賞受賞。以降、国内外で多くの建築を手掛け、受賞多数。代表作に「」「地中美術館」「表参道ヒルズ」などがある。アメリカの複数の大学で客員教授を務め、97年から東京大学教授、現在は同大学特別栄誉教授。
 
阿部吉泰=写真
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最終更新:1/27(日) 12:18
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1/27(日) 12:18配信
 
コンクリート建築との出会い
 異色の建築家・安藤忠雄は、大阪の下町で育った。双子の兄として生まれた安藤は、母が一人娘だったために最初の子供が実家を継ぐという本人の与り知らない約束によって、この地に住む祖父母に引き取られた。弟と数分の違いで、この運命を生きることになったわけだ。小学生の時に祖父が亡くなり、祖母とふたりの暮らしは貧しかったが、焼け野原で遊び回り3日にあげずケンカをしていたという。つまり勉強とはあまり縁がない少年時代である。
 
「およそ高尚な文化的な匂いのしない生活環境で、向かいは木工所、その隣が碁石屋、鉄工所、ガラス工場が連なっている町。ガキ大将で遊び一方やったから、学校の成績はいつも下から5番目くらい。まあ、そこをキープしていたのはえらいと思う」
 
安藤が建築という分野に初めて興味を持ったのは、中学2年の頃に家を2階建てに増築した時だったという。どこに興味を持ったのかという問いに、現場で働いていた大工や左官など職人の生き生きと仕事をする姿だという答えが返ってきた。
 
「一心不乱に仕事してて、仕事ってこんなに集中できるものなのか、みんな楽しそうやなと思った。生きるって実感があった。でも、最近の建築現場は全然楽しそうでない。面白くなさそうな顔してる。今の日本は、まるで面白くしていたら悪いかのよう。イタリアの現場は、楽しそうに仕事して帰るよ」
 
家を建てる人の楽しみと、そこから生まれる新しい生活への期待、つくる人の一途な仕事への姿勢。安藤の原点は、大阪の町で生きる人々の明るい喜びに包まれて出来上がっていく建物だったというわけだ。
 一筋の明るい光を追う道とはいえ、その道程は真っ直ぐで平坦なものではない。辛うじて工業高校の機械科に進学したものの、1年は野球に夢中。指に怪我をして投げられなくなって、2年はレスリング。すぐに国体まで出場したそうだが、3年はボクシング。
 
「大卒の初任給が1万円の時代に、1回試合すれば4000円。ケンカしてお金もらえるのはええなと思って、1カ月くらいでプロのライセンスを取った。4回戦くらいは勢いと体力と思いがあればいける。タイで試合をやることになって、ジムでは誰も行きたくないという。それなら自分が行ってみようかと手を挙げたんやけど、初めての外国にたったひとりの船旅、言葉も通じない。そりゃ気合が入る。何があっても誰も助けてくれないってこと、体中に沁み込んだ」
 
人が尻込みすることに敢然と立ち向かう。安藤のその後の長い道のりを支えてきた決して諦めない底力と独立独歩の精神は、18歳までに肉体化されていたということだ。
 
高校卒業後に建築家を目指すと決意したが、周囲は口を揃えて「大学の建築科を出てなきゃ無理」と言う。常識的に考えれば難しいかもしれないが、そもそも常識的という範疇(はんちゅう)に収まらないのが少年の頃からの安藤の真骨頂である。自分のやり方で突き進む。
 
「高卒でも道はある。時間がかかって大変なだけ。建築関係の実務を7年経験すれば2級建築士の試験が受けられて、そこから4年で1級建築士が受けられる。どうしてもやりたいという意志があればできる」
 
難しい建築関連の本も、人の倍の時間をかけて頭に叩き込む。教室で座る代わりに足と五感を駆使して、バイトの休みの日に日本中のあらゆる建築を見に行く。オリンピックに沸く東京で、丹下健三(たんげけんぞう)の建設中の国立代々木競技場を見た。力強く美しいコンクリートが強烈に印象に残った。安藤といえばコンクリートを直ちに連想するほどの特色は、この時の驚きの芽から発しているのだろうか。木造に慣れた多くの人は、コンクリートに冷たくて無機質なものを感じてしまう傾向がある。
 
「コンクリートは世界中どこでも手に入る材料。日本人の自然観や技術を生かした日本にしかできない美しいコンクリートで、どこにもない建築をつくりたい。コンクリートやガラスや鉄を自然と融合させれば、温かさや人間性や精神性を持ちうることを証明したいと思った」
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建築で社会にどうかかわるか
 安藤の建築家としての一歩は、現在事務所がある場所に建てられた「富島邸」、そして異色の建築家としてその名を世界に知らしめた「住吉の長屋」と、小さな個人の住宅から刻まれている。コンクリート打ち放しという素材と工法もここから始まっている。
 
日本建築学会賞を受賞した「住吉の長屋」は、両側の家と壁を共有する木造3軒長屋の真ん中にコンクリートの箱をスポンとはめ込んだような、斬新にして限界に挑戦するような小さな住宅。両側からの採光は不可能だから、真ん中に屋根のない光庭と呼ばれる中庭をつくり、そこから四季の移ろいを映す空や光や風が感じられる。が、光庭で左右に分かれた部屋の間の行き来が容易ではない。雨の日はトイレや風呂場に行くのに傘をささなければならない。自然が暮らしにもたらす力を信じ、普通の住宅ではありえない不便さを抱き込んだ。
 
「建築は、目指せ公的なものや大きなもの、という風潮やったけど、自分にそんな仕事はない。小さな住宅で巨大な建物に対抗できないやろかと考えていた。賞をもらった時、これを僕につくらせて住んでる人がエライと言った人がおったけど、ホンマにその通り。40年以上経ってもう高齢にならはったけど、まだ住んでくれてる」
 
広さや快適性や利便性を超えて、ここで暮らす人の心や生き方にこの建物が深く棲みついてしまったのだろう。
 
その後の安藤の快進撃は誰もが知っている通り。日本では大阪の「光の教会」「近つ飛鳥博物館」、北海道・トマムの「水の教会」、兵庫・淡路島の「本福寺水御堂(ほんぷくじみずみどう)」「淡路夢舞台」、香川・直島の「地中美術館」「ベネッセハウス」「南寺(みなみでら)」、東京の「表参道ヒルズ」……。海外でもアメリカの「フォートワース現代美術館」「ピューリッツァー美術館」、ドイツの「ランゲン美術館」、中国の「上海保利(ポーリー)大劇院」、イタリアの「プンタ・デラ・ドガーナ再生計画」などなど、書き出したら終わらないほどの安藤建築が日本中、世界中に息づいている。
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 建築という仕事を通して社会に対して何ができるのか、人の心に何を残すことができるのかとずっと考えてきたという。いつも一歩前に進むために既成概念への挑戦を続けてきた安藤は、病を乗り越えてなお強烈なメッセージを発する一方、時代を映す建築の世界で生き抜いてきた建築家の目や知恵を駆使して積極的に社会の再生にかかわっていこうとしているように見える。
 
この日安藤は、自らの建築作品である東大阪市司馬遼太郎記念館と、旧淀川の中州・中之島に案内してくれた。中之島は江戸時代には米蔵が集中した「天下の台所」。明治以降は金融機関や商船会社が集まり経済繁栄を支え、今は大阪市中央公会堂大阪市立東洋陶磁美術館がある文化の中心へと歴史を刻んできた。このエリアに「こども本の森 中之島」(仮称)を建設する構想を熱く語る安藤の目からは、闘いの厳しさではなく子供の未来を想うやさしさと温かさが感じられる。
 
「子供の頃よく写生しに来たところ。川があって、歴史があって、そんな場所で子供が本に親しめたらええなと思う。近頃の子は本を読まないと言われているけど、僕も本がない環境で育って、もっと本を読んでいたらと思うから」
 
その思いを込めた設計図と模型を準備し、土地を所有する大阪市に自ら説明に行った。建設費や5年間の運営費も企業からの資金協力を得るなどして負担し市に寄贈するという。
 
「頼まれもしないのにようやるわ」と笑う安藤に、反骨精神も含めて自らを育ててくれた大阪への限りない愛着が感じられる。何の実績もない時代に、「面白いやっちゃ」と目をかけ支えてくれたたくさんの人と、この町で出会えた。この場所の記憶が、安藤の中核を形作っているからこそ、子供たちに大阪の誇りを手渡したい。
 
「ここにしかない面白い建物、地域社会をつくれたら、大阪を東京からも世界中からも人々が集まる魅力あふれる都市にできるかもしれんと夢見てる」
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