藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

その底にあるもの。

かつてない情報化の時代。
もう言葉や知識をどれだけ知っているか、というのは優位ではなくなった。
時代の歴史を知っていることは大事だが、年表をただ暗記していることの意味はまったくなくなった。

ネットでどこまでの情報が得られるか。
wikipediaで一次的な知識はカバーされつつある。
さて「そこからの先」が問われていると思う。

例えばAI(人工知能)について。
多くのネットや書籍の情報を見ても、まだ真実は見当たらない。

多分なぜなら「技術そのものがまだ進化の途上そのもの」だからだと自分は思っている。

しかしながらAIやディープラーニングを「これだ」という情報はものすごく多い。
そればっかりだ。

自分の知る限り、まだどれも「自動プログラミング」の一種である。
だから情報を得る時も「どこからが本物の人工知能なのか」ということの定義に迫った意見に注目せねばならない。

そういう視点で見ると、本当に有用な意見を述べている人はごく一握りだと思う。

「どこまでの自動化が進めば人工知能と言えるのか」
「プログラム独自で「電源のオンオフや実行か撤退か」を決めれば人工知能か」

反対に「細胞は一から作れるか」「生命とは何か」という生命科学的なアプローチも要るだろう。

どれもウェブ上で淡々とツィートできるようなものではない。
大事なことを考える時間を、情報の激流に流されては本末転倒である。
今こそ本物の知識に迫ろう。