藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分の考え。自分なりの起点。

物理学者の松浦壮さんのAI論。
表現の達者な科学者の書物を読むのはとても楽しい。

「学習し、判断している」と人間が感じるように設計された人工物のことです。
将棋でも、翻訳でも、音声認識でも、それぞれの場面で、人間が見て判断しているようにみえる結果を返してくれればそれでよし。
人の形をしている必要も、人と同じ仕組みで動作している必要も、まして、哲学的な意味で知性を持っている必要すらありません。
単純に、「特定のインプットに対して、人間から見て、状況に即したアウトプットを返す人工物」。これが人工知能です。

あーすっきりした。
ともかく定義が広すぎて、気がつけば自分自身も「ある種の自動的なもの」をAI呼ばわりしていて、気持ちが悪かった(のは私だけではあるまい)。
これはこれで一つ片付いた。
が。
が。

私たちは、「学習し、判断している」と判定出来る現象をみたとき、その現象を引き起こしているものに「知性がある」と判断します。

知性とは何か。
でた。
「知識」と「知性」とか。
「知識」と「知恵」とか。
「知識」と「創造(オリジナル)」とか。
あの無限ループの話になる。
そしてこういうのを詰めていくと、必ずソクラテスとかプラトンとか‥

そういえば大学で哲学を教える友人が「今、あらためてソクラテスを繙いている」と真面目に言っていた。
恐ろしや恐ろしや。
人は生きていく限り無限に考え続ける生き物でもあるらしい。

物理学者はAIをこう見る〜あなたは「正しく」怖がれていますか?

6/16(土) 15:00配信

写真:現代ビジネス

AIは本当に「怖い」のか?

 この数年で「人工知能(AI)」という単語を聞く機会が増えました。

中学生の天才プロ棋士藤井聡太氏が永世七冠羽生善治氏を破ったことが話題になったその裏で、いまやAIはプロ棋士を凌駕するレベルに達しました。

より複雑な囲碁ですら、AI「アルファ碁」がトップ棋士を破り、その実力は今なお進化を続けています。

普段お世話になっているGoogle検索では、多少タイプミスをしてもAIが意味を汲んでくれますし、iOSに搭載されたSiriは、「Siriさん」とでも呼びたくなるような反応を返してくれます。事故のために中断しているとは言え、AIによる自動車の自動運転の流れはもう止まらないでしょう。

そんなAIの急進展にそこはかとない不安を覚える方、結構いるんじゃないでしょうか。

例えば職業。AIにできることが増えれば、自分の仕事が取られてしまうかも知れません。これは、産業革命時代、仕事が機械化される中で労働者が感じた危機感と同じです。

歴史は繰り返します。

かつて「機械化」は労働者と資本家という対立構造を生み、それはやがて政治に組み込まれ、悲しいかな、多くの戦火を生み出しました。

AIによって子供たちの時代に新たな火種を撒いてしまっているのかも知れない。そんな不安が頭をよぎる方もいるでしょう。

AIによる自動コントロールはやがて船舶や航空機に及ぶでしょう。

人が乗らなければ、機械は搭乗者を守るという軛(くびき)から解放されます。人では堪えられない加速度で飛び回る戦闘機に、人が搭乗するが故に性能を制限された戦闘機が勝てるはずがありません。

「相手よりも強い武器を持つべし」という極めて現実的な理由で、武器はどんどん無人化されるでしょう。そして、作戦の立案にまでAIが関与し、戦闘行為に人の手が何一つ必要なくなった未来に、AI搭載の武器達が「低能な」人間の支配下に置かれることを嫌い、牙を剥くかも知れない。

往年の名作「ターミネーター」やアイザック・アシモフのロボット3原則を彷彿とさせます。怖いですね。

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「わかる」ことの大切さ

 さて、ここで敢えて問います。

そもそもAIとはなんでしょう?
 どんなことでも同じですが、怖いと感じるものをただなんとなく怖がるというのは、お化けが怖いという感情と大差ありません。

もちろんこれは自然な感情ではあります。そもそも生物は、わからないもの・未知のものを過大評価して怖がるという戦略を採って進化してきました。さもなければ自然界を生き延びられなかったからです。わからないものは無条件に怖いのです。

ところが、人間はこの生物的な反応に対して対抗手段を持っています。

まずはその対象の正体を見定めるべし。
しかる後に、本当に怖いものは何なのかを見定めるべし。

科学の大原則、と言っても良いですし、彼を知り己を知れば百戦危うからず、と言っても良いです。AIを正しく怖がるための第一歩は、AIをわかることです。

もちろん、「わかる」と言っても、何も微に入り細に入り、全てを理解する必要はありません。そんなことが出来るのは専門家だけ。私も含めて、門外漢が「わかる」というのは、

その領域の土台を形成しているアイディアを理解する

という意味です。これはちょうど、足し算がわかれば掛け算を理解出来たり、基本の漢字を知っていれば、初見の難しい漢字でも何となく意味が取れたりするのと同じです。

そして私の専門は素粒子物理学。「同じようなモンやないか!」と感じるかも知れませんが、それは誤解というもの。AIは完全に専門外です。

というわけで、これから書くことは、あくまで「専門外の人間が仕事の合間に勉強したAIの基礎」です。物理屋流の「わかり方」を楽しんでいただければ幸いです。

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AIとはこんな人工物である

 さて、AIです。AIはArtificial Intelligenceの頭文字。「人工知能」はその直訳です。知能というのは、知性を発揮する能力のこと。

では「知性」とは何か。これはこれで哲学の一分野が出来てしまうのですが、そんな深いところを気にするのは後で良くて、まずはたくさんの例を挙げることからはじめましょう。問います。

私たちはどんなものに知性を感じるでしょう?
 もちろん無数の例が挙がりますが、思いつくままに挙げてみましょう。聴衆の心を掴むプレゼン、明快で示唆に富む文章(この文章がそうでありますように・・・)、心に残る音楽や絵画。硬いものに限る必要もないですね。普段の何気なく会話をする友人にも、スポーツの対戦相手にも、街を行く人々の在り様にすら、私たちは広い意味で知性を感じます。

では、知性を感じるのに、相手が人であることは必要か? 答えはノーです。

例えば、見知らぬ誰かとの会話で、こちらの言葉に適切に反応を返してくれる時点で、相手には「知性」を感じます。この時、私たちが観ているのは「人」ではなく「会話の内容」です。仮に相手がロボットだと知らされたら、驚くかも知れませんが、知性を感じた事実は変わりません。

私たちは、「学習し、判断している」と判定出来る現象をみたとき、その現象を引き起こしているものに「知性がある」と判断します。もちろん、それが本当に知性と呼べるかどうかは議論の余地がたくさんありますが、出発点としてはこれで十分です。

ここまで来ると明らかですね。AIとは「人工的に作り出した人間の知性」などという曖昧なものではありません。

「学習し、判断している」と人間が感じるように設計された人工物

のことです。将棋でも、翻訳でも、音声認識でも、それぞれの場面で、人間が見て判断しているようにみえる結果を返してくれればそれでよし。

人の形をしている必要も、人と同じ仕組みで動作している必要も、まして、哲学的な意味で知性を持っている必要すらありません。

単純に、「特定のインプットに対して、人間から見て、状況に即したアウトプットを返す人工物」。これが人工知能です。

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AIの作り方

 素朴な疑問が生じるのは当然です。

理念は分かった。で、そんなのどうやって作るのん?
 ごもっともです。今の人工知能がどんなものかを知るには良い機会です。少し細かくなりますが、「画像認識」を例にして考えてみましょう。

画像認識というのは「写真に映っているもの」を特定することです。デジタル画像というのは、そこに猫が映っていようが、花が映っていようが、所詮は数百万個の「色つきドット」の集まりです。

コンピュータにとってはそこに意味などなく、数百万個の「色情報」以上の何物でもありません。この大量の色情報の集まりから「そこに映っているもの」を特定せよ、というのが画像認識のミッションです。

真っ先に試みられたのは、「もの」に特有のパターンをコンピュータに教え込んでしまおう、という戦略です。

例えば「花」なら特徴的な色の集まり、「猫」ならかわいらしい輪郭、という具合です(もちろん、本当はもっと厳密です)。

人が難なく画像認識している以上、「もの」にはそれを特徴付けるパターンがあるはずだ。そのパターンを全て網羅すれば、どんな画像に映っているものも必ず判定出来るはずだ! というわけです。

このやり方は成果がありましたが、残念ながらあらゆる画像を柔軟に判定できる、とまでは行きませんでした。どうやら、「判断基準を事細かに網羅的に教え込む」というやり方はどうしても不自然さを生んでしまうようなのです。これは画像認識に限りません。

自動翻訳の分野でも、文法を教え込むやり方で作られた一世代前の翻訳機能は不十分でした。実際、不自然な翻訳に大笑いした経験のある方も多いでしょう。

どれだけ正確に文法を教えても、どれだけたくさんの例外を教え込んでも、人間が行うような自然な翻訳には及ばなかったのです。

ディープラーニングとは何か?

 ここに大きなブレークスルーをもたらしたのが、ディープラーニングに代表される「学習」の新しいアルゴリズムです。

その詳細を書くにはこの欄は狭すぎるのでアイディアを述べるに留めますが、一言で言うなら、ディープラーニングというのは「調整機能付きブラックボックス」です。

例えば「花」の画像を用意しましょう。ディープラーニングの特徴は何層にもわたる段階的な処理です。今の場合なら、画像の情報量を段階的に減らして行きます。

「詳細な点描で描かれた絵画に水滴を落として不必要な色目をぼかしていく」と例えると分かりやすいかも知れません。ちなみに、各段階のぼかし方は調整ができます。

こうして次々に不必要な色目をぼかしていくと、画像は最終的に荒いモザイク模様になります。コンピュータは、このモザイクのパターンと予め人間が教えておいた「花」という言葉を関連付けます。同じことを、「猫」や「犬」など、他のものが映った画像についても行います。

続いて別の「花」の画像を用意して、同じようにぼかしていきます。辿り着いたモザイクのパターンが以前の「花」のパターンと似ていればOKですが、通常、そうは問屋が卸しません。花の画像からはじめたのに「猫」に似ていたりします。そんな時は、「花」のパターンが得られるように各段階のぼかし方を調整します。

この作業をひたすら繰り返すと、徐々にぼかし方が洗練されて、段々と画像の特徴を抽出出来る方向に(パラメータが)調整されていきます。

この“学習フェーズ”を経てチューンアップされた、「どんな画像を入力してもそこに描かれているものを(ほぼ)特定できる『ぼかし方のセット』」こそが、画像認識を行う人工知能というわけです。

この手法そのものはさほど新しいわけではありませんが、インターネットによってもたらされた大量のラベル付きデータと、並列計算環境の急激な発展がこのアルゴリズムを可能にしました。

これがディープラーニングの概要です。余談ですが、この例のように人間が結果を教えることによって調整を行う学習を「教師あり学習」と呼びます。

膨大なデータをグループ分けする時などに使う「教師なし学習」のアルゴリズムもありますが、ここでは詳しく述べません。

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「怖いか怖くないか」という問いは的外れ

 さて、非常に大雑把ながら現在の人工知能についてお話しましたが、いかがでしょう? ざっくりとでも正体がわかった後では、「怖いか怖くないか」という問い自体が的外れに感じませんか?
 というのも、人工知能が「これまでにない機能を持った道具」以外の何者でもないことがわかるからです。これが「彼を知る」ことの効果です。

例えば、私がコンピュータと計算のスピード競争をしたらコンピュータの圧勝ですが、悔しくもありませんし、脅威も感じません。

ショベルカーと穴掘り競争をしても全く勝てないけど、悔しくもないし脅威でもないのと同じ。肉体を使うよりも効率の良い道具がある、というだけのことです。

人工知能も同じです。ディープラーニングという効率の良い機械学習アルゴリズムが実現されたことで、画像認識や翻訳のような、機械学習が出来る程度のパターン認識は、今後、人間よりもコンピュータの方が圧倒的に速くなります。

当然、その技術が応用できる類の作業は、人からコンピュータに取って代わられるでしょう。

ある程度の年月が経った後で見れば、その手の作業を人の手でやるのはひどく効率が悪く見える時代が必ず来ます。

今の時代に、「荷物は全部人間が運べ!」と聞いたら「え〜〜……」と感じるのと同じ。これはもう避けられないことです。

「判断は人間の聖域」という価値観の方が偏っているのです。

また、機械学習できる内容も今後の研究で増えていくはずです。その動向には注意を払った方が良いでしょう。

ですが、ひとつ確かなのは、先に書いたような学習の仕組みから考えて、よほどの技術革新が起こらない限り、機械学習には「人」という教師が必ず必要です。

もちろん「教師なし学習」もありますし、「自動学習」という分野もありますが、それもまたアルゴリズムである以上、所詮は一定の条件の下で機能する道具です。現状、AIが出来ることは全て、原理的には人にも出来ることなのです(もちろんAIの方が圧倒的に速いですが)。

しかも、AIが取り扱えるのは、デジタルデータとして学習出来ることに限られます。

例えば、「理論物理学の研究をするAI」は、現状では実現出来ないでしょう。学習方法がないからです。同じように、「AIが人間を滅ぼす可能性」もちょっと考えつきません。AIが道具である以上、それは人が使うものだからです。

むしろ「破滅的な状況を避ける方法」をAIに模索させる可能性の方が大きいように思います(もっとも、人間が破滅を望んだときはその限りではありませんが)。

仮に、学習内容自体を自己学習する「メタAI」に相当するものが誕生したらこの前提は崩れますが、それは相当先のお話です。

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現実的な問いが重要になる

 となると、私たちが気にしなければいけないのは、「AIが怖いかどうか」などという次元を超えて、

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・どういう作業をAIに任せることになるのか
・AIが下した判断を人がどのように活用し、どのような形で共有するのか
・AIがあることが前提となる国家・地方都市・人間社会をどのように設計するのか
・移行の過渡期に必然的に仕事からあぶれる人の生活をどのように保証し、どういう形で軟着陸させるか

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という類の現実的な話になります。

こうした論を煮詰めて、現実問題として具体化し、次世代の社会を作って行くためには、有機的に連携した多くの人の手が必要になります。

AIのせいで仕事がなくなるどころか、むしろ、AIのために必要な仕事が山積みというこの状況。怖いというなら、その作業が遅れることの方がよほど怖いことです。

何にせよ、せっかくの新展開。お化けのように怖がるのではなく、便利な道具が誕生したことを素直に歓迎したいところです。

好奇心を以て遊び、手に馴染ませ、熟達の妙を楽しみながら「どうしたら人がより幸せになれるか」という方向に力を傾けてくれる方が、特に若い人たちの中にたくさん現れることを祈りつつ、今宵もまた人が醸したお酒を楽しむことにいたします。