藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

嫌悪思考

*[次の世代に]好き嫌いを超えて。
昨日「自分にとっての壁」はたくさんあったほうがむしろ自分の力になる、と書いた。
壁のない人生は、平坦だけれど自分を鍛えないだろうと思う。

そして、さらに「嫌なこと」もたくさんあったほうがよさそうだ。
なぜかと言うと「嫌なこと」というのは自分とその対象との間のギャップの象徴だから。
「自分と対象の間には何かある」のが確実だ。

嫌なことがあればあるほど、自分と外界とのギャップがたくさんあるってことになる。
不快なこと。
物足りない思い。
憤り。

その原因を考えてみて、原因が自分にあったのなら、自分の欠点や特徴を客観的に知ることができるだろう。

一方、その原因が相手にあったのなら、「なぜ相手にはその原因が発生したのか」と一段深く考えてみることができる。

さらにそうすると「相手を客観的に見ることができて、"単に憎悪する"という感情も無くなってくるものだ。 

これは大きい。

 自分たちを大きく支配している「情緒」について、少し落ち着いたアプローチができる方法でもある。

 

「壁」とか「嫌悪」とか、自分たちはどうしてもそうした「抵抗」がないと、考えずに安穏と過ごしてしまう生き物らしい。

その「安穏」が決していけないことだとは思わない(むしろ平和だ)のですが、でも因果な性質だと思うのです。