藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

福岡式、タイムスリッピング。

学問のいいところと「学問でしかない」ところ。

このことによって日本の過去が、自分の生まれる前の、自分とは関係のない遠い昔ではなく、今もなお同じ風土と文化の中に生きる自分と地続きのものであることを認識させた。
これほどすばらしい歴史の講義があるだろうか。

学問は実は「学問」ではなく、今の自分のいのちと「地つづきなものだ」、と気づいた途端、学問は机上の論ではなくなる。

なぜ日清戦争が起きたのか。
何を巡って日本と中国は戦ったのか。
民権論者はどう見ていたのか。
日露戦争から第1次世界大戦にかけての変動。
国家改造論。
当時の東大生の88%が武力行使を正当と考えていた満州事変前夜。
ついに太平洋戦争が開始されたとき人々はどう思ったか。

50歳を超えた自分にも、どれ一つ回答はできない。
だから学び直したいと思った。

文学とか、教育とかは「タイムスリップ」を起こせる分野なのだ。
若い人にも自分にも時空を超えた体験が可能なことはすごい発見ではないだろうか。

近現代史の講義 生徒とタイムスリップ

 今回も、「専門家が、優秀な学生・生徒を前にして行った講義録を読む」という読書を提案したい。

 今日取り上げるのは、近現代史の専門家・加藤陽子が神奈川県の進学校栄光学園の有志中高生を相手に行った『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)である。名著といってよい。まずは、なんといっても書名が秀逸である。このタイトルに本書の成り立ちのすべてが象徴されている。

 日本の過去に起きたことについて、理論や解釈や結論を示すのではなく、当時、何がどのように起き、人々がどう考えていたか、あとづけていくことによって、そして、これが実に丁寧に、きめ細かく、リアルに行われることによって、生徒たちは必然的にタイムスリップさせられる。

 なぜ日清戦争が起きたのか。何を巡って日本と中国は戦ったのか。民権論者はどう見ていたのか。日露戦争から第1次世界大戦にかけての変動。国家改造論。当時の東大生の88%が武力行使を正当と考えていた満州事変前夜。ついに太平洋戦争が開始されたとき人々はどう思ったか。

 おそらくこの講義が行われているあいだじゅう、生徒たちは、映画館で映画に没入するように1930年代から40年代にほんとうに生きているような気分になっただろう。そして、自分ならどう思い、どう判断しただろうという思考実験を課せられる。加藤の狙いもまさにここにあったのだ。それでも「戦争」を選んだ日(ゝ)本(ゝ)人(ゝ)に、生徒が自らを重ね合わせることに成功した。

 このことによって日本の過去が、自分の生まれる前の、自分とは関係のない遠い昔ではなく、今もなお同じ風土と文化の中に生きる自分と地続きのものであることを認識させた。これほどすばらしい歴史の講義があるだろうか。

 なぜこんなことが達成できたのだろう。おそらく加藤は、普段、東大の学生や院生に対して行っている専門の講義から離れて、中高生の目線に降り、過去を思い出し、時間をかけて入念に準備し、段取りや展開を考え、資料を用意したことだろう。

 加藤は生徒たちをタイムスリップさせると同時に、歴史に興味を持ち、数々の疑問を心にいだいた自分自身の中高生時代に、自らをもタイムスリップさせることによって、このような画期的な講義を行うことができた。

 つまり、ほんとうに優れた教師の講義とは、テキストに書いてあることをただ伝達するのではなく、テキストを勉強してきた自分が、なにに気づき、どのように理解してきたか。その学びのプロセス自体を伝達できたとき、はじめて成立するものなのだ。本書はそのことの類稀(たぐいまれ)なる例証である。

生物学者

福岡式、タイムスリッピング。

学問のいいところと「学問でしかない」ところ。

このことによって日本の過去が、自分の生まれる前の、自分とは関係のない遠い昔ではなく、今もなお同じ風土と文化の中に生きる自分と地続きのものであることを認識させた。
これほどすばらしい歴史の講義があるだろうか。

学問は実は「学問」ではなく、今の自分のいのちと「地つづきなものだ」、と気づいた途端、学問は机上の論ではなくなる。

なぜ日清戦争が起きたのか。
何を巡って日本と中国は戦ったのか。
民権論者はどう見ていたのか。
日露戦争から第1次世界大戦にかけての変動。
国家改造論。
当時の東大生の88%が武力行使を正当と考えていた満州事変前夜。
ついに太平洋戦争が開始されたとき人々はどう思ったか。

50歳を超えた自分にも、どれ一つ回答はできない。
だから学び直したいと思った。

文学とか、教育とかは「タイムスリップ」を起こせる分野なのだ。
若い人にも自分にも時空を超えた体験が可能なことはすごい発見ではないだろうか。

近現代史の講義 生徒とタイムスリップ

 今回も、「専門家が、優秀な学生・生徒を前にして行った講義録を読む」という読書を提案したい。

 今日取り上げるのは、近現代史の専門家・加藤陽子が神奈川県の進学校栄光学園の有志中高生を相手に行った『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)である。名著といってよい。まずは、なんといっても書名が秀逸である。このタイトルに本書の成り立ちのすべてが象徴されている。

 日本の過去に起きたことについて、理論や解釈や結論を示すのではなく、当時、何がどのように起き、人々がどう考えていたか、あとづけていくことによって、そして、これが実に丁寧に、きめ細かく、リアルに行われることによって、生徒たちは必然的にタイムスリップさせられる。

 なぜ日清戦争が起きたのか。何を巡って日本と中国は戦ったのか。民権論者はどう見ていたのか。日露戦争から第1次世界大戦にかけての変動。国家改造論。当時の東大生の88%が武力行使を正当と考えていた満州事変前夜。ついに太平洋戦争が開始されたとき人々はどう思ったか。

 おそらくこの講義が行われているあいだじゅう、生徒たちは、映画館で映画に没入するように1930年代から40年代にほんとうに生きているような気分になっただろう。そして、自分ならどう思い、どう判断しただろうという思考実験を課せられる。加藤の狙いもまさにここにあったのだ。それでも「戦争」を選んだ日(ゝ)本(ゝ)人(ゝ)に、生徒が自らを重ね合わせることに成功した。

 このことによって日本の過去が、自分の生まれる前の、自分とは関係のない遠い昔ではなく、今もなお同じ風土と文化の中に生きる自分と地続きのものであることを認識させた。これほどすばらしい歴史の講義があるだろうか。

 なぜこんなことが達成できたのだろう。おそらく加藤は、普段、東大の学生や院生に対して行っている専門の講義から離れて、中高生の目線に降り、過去を思い出し、時間をかけて入念に準備し、段取りや展開を考え、資料を用意したことだろう。

 加藤は生徒たちをタイムスリップさせると同時に、歴史に興味を持ち、数々の疑問を心にいだいた自分自身の中高生時代に、自らをもタイムスリップさせることによって、このような画期的な講義を行うことができた。

 つまり、ほんとうに優れた教師の講義とは、テキストに書いてあることをただ伝達するのではなく、テキストを勉強してきた自分が、なにに気づき、どのように理解してきたか。その学びのプロセス自体を伝達できたとき、はじめて成立するものなのだ。本書はそのことの類稀(たぐいまれ)なる例証である。

生物学者