藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

魔法のフレーズ。


若い時には聞かなかった究極の一言。

「若い頃にもっと勉強しておけば良かった」と、言わない大人に出会ったことがない。
ご多分に漏れず、私も日々後悔の念に苛(さいな)まれている。

学校のセンセからも聞いたことがない。
こう聞いていたら「ほうほう。そんなもんか」ともう少し勉強していたのに。
「日本の暗記教育なんてくだらない」とか「没個性でしかない」などと憎まれ口も聞いていたと思う。

けれども。

「知識は質、だが量がないと意味が薄い」
「基礎ができていないと、まるで応用が利かない」

そんなことを社会人になった途端に自分はか思い知った。
自分は「社会の海を裸で泳ぐ」ごときだった。

けど。
けれど。
社会人になって「そのこと」に気づいたのだからいいじゃないか。
ええやんか。と思うしかない。
コラムニストの言葉はこう終っている。

喜んで良いはずなのに、なぜか八方塞がりになった気分だ。

ふう。

勉強と学習 ジェーン・スー

 「若い頃にもっと勉強しておけば良かった」と、言わない大人に出会ったことがない。ご多分に漏れず、私も日々後悔の念に苛(さいな)まれている。

 大人が学生時代の不勉強を悔いる理由はそれぞれだが、私の場合は知識不足のせいで物事が十分に楽しめない時に後悔が押し寄せてくる。その場面は想像よりずっと多く、しかも不足している知識は文学、美術、世界史、語学、と学生時代に学ぶ機会のあったものばかりだ。

 学生時代の私は、勉学をサボることに血道を上げていた。学校や授業をズル休みすることはなかったが、塾は親にバレない頻度で着実にサボった。成績が上がらぬことにしびれを切らした親が頼んだ家庭教師との時間では、彼女の気を逸(そ)らすことにばかり熱心になった。自室では、宿題をするふりで漫画を読み耽(ふけ)った。

 成績は中の下から落ちないようにしていたので、問題になるほど不真面目な生徒だったわけではない。ただ、ギリギリの低空飛行で乗り切るのが、勉強との適切な向き合い方だと思っていたのだ。

 なぜ、こうも勉学に消極的だったのか。思い返すに、勉強とは問答無用でやらねばならぬものだと思い込み、意義や楽しみを見出(みいだ)すことを放棄していたからだろう。

 定期テストや受験で良い結果を得ること以外に、私には頑張る理由が見つけられなかった。インセンティブのないまま、ひたすらに年号を覚えるのは苦痛でしかなかった。

 大人になって随分経(た)った先日、パーソナリティを務めるラジオ番組で勉強と学習の違いを知った。

 三省堂新明解国語辞典によると勉強とは「知識や見識を深めたり特定の資格を取得したりするために(中略)能力や技術を身につけること」で、学習とは「繰り返しながら(段階的に)基礎知識を学ぶこと」を指す。つまり、学習なくして勉強が身に付くことはない。

 学生時代、私はその場凌(しの)ぎの勉強ばかりで、学習を致命的に怠った。繰り返すことも、段階的に基礎知識を身につけることもなかった。おかげで、大人になってからは後悔を繰り返し、勉学の重要性を身をもって学習した。皮肉なものである。

 日々考えながら生きることも学習のひとつである故、さすがに十代の頃より思考力は伸びたと思う。しかし、思索を進めるための基礎力が足りない。絶対的基礎知識量が不足していると、新しい出来事に出合っても、記憶にある知識とそれを紐付(ひもづ)け理解を深めることができないのだ。

 大人なら知っていて当然とされることを知らずに恥を掻(か)くことも多い。知識は量より質と言うが、それは一定の量を超えた先の話である。

 先生や親は、私に勉学の重要性を説いていたように思う。しかし、私はそれを受け流していた。結果、思考の礎となる知識の引き出しを開けても中は空っぽのまま。虚無の空間を覗(のぞ)くたびに、ある時期には記憶を詰め込むことも必要なのだと痛感する。

 もう取り返しがつかないと諦めていたら、加齢によって記憶力が低下するという通説には誤りがあるという記事を見つけてしまった。学習さえすれば、いくつになっても勉強は身につくのだそうだ。

 果たしてこれは朗報か否か。あとは私のやる気次第ではないか。

 喜んで良いはずなのに、なぜか八方塞がりになった気分だ。

(コラムニスト)