藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自我の分厚い壁。

他人のしでかした「かっこ悪い言動」を後から自分が思い出して赤面することはない。
お祝いのスピーチだって、仕事のプレゼンだってフフッと笑っておしまいだ。

それが自分のこととなると、ごくつまらぬ受け答えのことですら赤面する。
仕事の打合せでも。
家族との会話でも。
飲み友達との会話でも。

後から、もう少し気を使えばよかった、というのはもうキリがない。
自意識とか自我とはなんと強いものだろう。

人様他人さまは何にも気にしていないだろうに、自分だけがくよくよしている。

それこそが、自分の反省であり今後の見直しであるのだけれど。
「我がことで考えること」と「他人事で聞き流すこと」というのは恐ろしいほどにとらえ方が違うものだ。

だからもし「他人事」をも「我がこと」のように捉えられる感覚があれば、恐ろしいほどに経験値が上がるのでは、と思うのだが。

どうにも「自分のこと」で精一杯で、はっきりと「自分と他人」を区別するのが人の特性なのだろうか。
自我とか自意識というのはつくづく恐ろしいものだと思う。

きゃっと叫んでろくろ首 作家 江波戸哲夫
「きゃっと叫んでろくろ首」

遠い昔、人気作家・吉行淳之介のエッセイの中にこのコトバを見つけた。

過去の自分の非常に恥ずかしい言動を思い出したときの、居たたまれない心境を表現したものである。

当時「上手(うま)いことをいうな」と他人事(ひとごと)に思っていたのだが、近年それが生々しくわが身に降りかかってきている。

たとえば十数年前、数人の同期生の前で、全員から呆(あき)れられるほどの、とんでもない無知をさらけ出したこと。

あるいは数年前、大勢の親族の前で意気揚々(ようよう)口にした台詞(せりふ)が、片方を褒(ほ)めたつもりだったのに他方にとても失礼だったこと。

…等々を思い出して、時に睡眠の妨げになるくらい「ろくろ首」になるのだ。

心身症の一種かと思って、旧知の作家仲間二人との酒席で打ち明けたら、

「そんなこたぁ、おれにもあるよ」

二人とも嫌なことを思い出したように顔を顰(しか)めたので少しは気が楽になった。

そういう言動を取らない最善の方法は聞き手に徹して喋(しゃべ)らないことだ。無知だってニコニコ聞き手でいればバレはしない。

あるいは官僚が作成した答弁書を読むように型通りに喋ればいい。

それが私にはなかなかできない。

職業柄なのか、それともある種の人間の性(さが)なのか、そういう席で少しはカッコいいことをいわなければいけない気になって口が滑るのだ。

そのスケベ心が何年か後にブーメランの如く返ってきてわが身に突き刺さる。

さあ修業、修業! いやもう遅いか?