藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ありのままに。

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

単なる読書録が完全に方向感を失う。
内容があまりに濃く、また広角な視野(生きること)の244ページ。


さて、どこから食いつくか。


以前読む前に「何だか重たそうな本だな」と言う予感はそのまま的中した。(ズドン)


なんとか全体を頭に入れきろうと丸二週間以上挑んだが、コタえた。
50ヶ所あまりに付箋を貼り、ボールペンで線を引き、レポート用紙に書き出すこと25枚余。


大体、書いてるうちに自分は本の
感想を書いてるのか、
要点をまとめてるのか、
触発されて新しい何かを書きたいのか、そして


そもそもなぜ「読書録」など書いてるのか、と迷う。


これほどまでにうろたえる原因は、著者の梅田望夫氏からもらった「はてなスター」だった。

はてなスターは(すでに一千万個以上らしいが)
「ページビュー以上、コメント以下」のブログ読者の格好のツールになった。


なにより「書き手と読み手」の立場を(星のやり取りという意味では)対等にしてしまった。

いままでの「いち読者」にとっては青天の霹靂、とも。


新しい作家と読者の関係

読者が「よほどの感動で著者に一筆したためる」というような行為以外に
「一般の読者と作家」が出会うことなどなかった。


梅田さんは本著の中で「ウェブ進化論」の上梓以降、読者のブログを通じた
「コラボレーション」が始まった、と記している。


そして、日本での出版セレモニーの席上ではついに断言。
「かならず見ていますから」と。


こんなことを宣言されてしまったら(むしろ著者の負担は大変なものになろうが)、
読者に対する「宣誓」でもある。


正面から読む、というのならこの「宣誓」に対し「いち読み手」として応える義務
が発生した、と受け止めた。


「前代未聞であります」(:司馬遼風)。


梅田さんが「このスタイル」を採り入れたのが世界初、かどうかは分からないが、
これまでになかった「関係性」が突然出現したことは間違いない。

「作者は読者に」「読者は作者に」ある意味つながれたのだ。

新しいテーマ

そうして「ウェブ時代をゆく」は「ウェブ時代」を「どう有意義に生きるか」という「新しいテーマ」の本である。


「ウェブ時代」のことを記した本は数多くあるし、
「生きる」こともいろんな自己啓発書や哲学書がある。

だが「ウェブ時代を生きる」ということについての本は(恐らく)ない。
その意味で分野そのものが新しい。

ウェブ進化論」との新しい関係

メイキング・オブ「ウェブ時代をゆく」ともいうべき「本書の設定」について。


確かに序章の最後には

本書は、ウェブ進化という同時代の大変化の真っ只中で、私たち一人ひとりがどういう心構えでいきていくべきか、そのことをテーマとしたい。(p33)

と書かれている。


だが不思議に思ったのは本書の帯だ。
ウェブ進化論、完結篇!」と書かれていたじゃない。

なぜ「ウェブ進化論」の到達点が「生きかたの書なのだ?」とこれが最大の謎だった。

あと書きを読んで驚く。

なんと本書のコンセプトは福沢諭吉の「西洋事情」と「学問のすすめ」の対をモデルにした、とある。


西洋事情は、初めて正式に「アメリカに渡った日本人留学」としてつぶさにアメリカを紹介した書だ。(こっちがウェブ進化論)


学問のすすめ、は例の「天は人の上に人を作らず…」で生き方、というか思想の書、と言っていい。
西洋に広く学べ、と「学びの姿勢」を説く(こちらが「ウェブ時代をゆく」か。)



ウェブ進化論」の次は何とはなしに「次は生きるとか、仕事とかそういうテーマ色を強くしようと思ったのかなぁ」などと思って読んでいた自分は、あとがきを読んで強く驚いた。

「ウェブ世界の構造」はきちんと書いたから、今度は「そこでの生き方」を書いておくのだ

という明確な構図が見えた。
なるほど、完結篇だ。

はれた霧

その「本としての新しい構造」(読者との関係とか、テーマそのものとか、対のコンセプトとか)、を持つ二冊。


そのコンテンツを「前から順番に噛み砕かん」としていたために自分が混乱していたのだ、とようやく気づく。


数式でカッコの中に中カッコ、その中に複数の小カッコがあったようなものか。


そんなわけで、食いつき処の多い本だけれど「幹を成す部分」と自分がみる部分をまず書きとめ、後から雑感含め上げておくことにしたい。



つづく