藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

注意するのは誰か。


通り魔事件その後の記事から。


新聞記事などで事件について、いろいろな意見がささやかれている。
大きくは二タイプ。


「病める現代、や若者の病理の象徴」という論調のものと、
「なぜ犯人は凶行に至ったか」という推理もの系か。

そして特に政治家や批評家など「いわゆるインテリ層」の発言には「なぜふせげなかったのか」「犯行予告の時から対応していれば、防げたのではないか」という声を少なからず聞く。


これがもっとも気になった。
そんなものではない、と思う。

それが間違いの始まり

ウェブの掲示板にあったのなら、それを早期に発見して対処すべき。

というのは一見正しいように聞こえる。
事実このような報道もあった。

「監視は事実上不可能」…無差別殺傷で情報会社


東京・秋葉原の無差別殺傷事件で、加藤智大容疑者(25)が犯行予告をした掲示板サイトをインターネット上で提供した滋賀県栗東市の情報サービス会社が17日、弁護士を通じて「掲示板には膨大な量の書き込みがあり、監視は事実上不可能」とのコメントを出した。(後略「ZAKZAKより」)

が実際には事件以降、同種の掲示板への似たような書き込みが続発し、逮捕者まで出ている。


自分はウェブは「そのような機能」には絶対不向きだと思っている。


「不特定、匿名の世界」にできる対処方法は「マス」でしかないと思う。
めいめい個別の声に対応していても、犯罪の防止にはつながらぬと。
むしろ愉快犯ばかり増える。


先の事件の記録を見ても、自分の「内なる声」をただ匿名で公開しているに過ぎない。相互の交信、は掲示板には期待されていないと思うのだ。
(もっとも犯人はネットで知り合った女性の友人はいたらしいが)

マスができることといえば、そんな「とがった書き込み」を人間がリアルに対応する相談室とか、カウンセリングに持っていくとかいう方向しかない。

「人の心のケア」という「ソフト」の自動化(ウェブ化)を期待するのは間違っているのだ。


評論家諸氏のさまざまなコメントを聞いていると、つくづく問題は単純でなく、孤立化していった「心」の狂気はネットなどで汲み取れるものではないと感じた。


そしてまた強く思う。
自分と友人、とか
自分と子供、とか
自分と同僚、とか
自分と後輩、とか

そんな「関係の強化」からしか防ぎようがない。

人の話を延々と聞く、というのは自分の時間を使い、とても労力のいることだ。
見知らぬ人へは対応しきれないだろう。


身近な人たちだけにでも、何とか「そんな意識」を持ちたいと思う。




<記事全文>


「監視は事実上不可能」…無差別殺傷で情報会社


東京・秋葉原の無差別殺傷事件で、加藤智大容疑者(25)が犯行予告をした掲示板サイトをインターネット上で提供した滋賀県栗東市の情報サービス会社が17日、弁護士を通じて「掲示板には膨大な量の書き込みがあり、監視は事実上不可能」とのコメントを出した。


 弁護士によると、加藤容疑者が書き込んだ「究極交流掲示板(改)」は同社のサービスを利用して開設されたが、運営、管理には関与していない。


加藤容疑者のものとみられる書き込みがあったのを知ったのは事件発生後だったという。