藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

人の精神は計れるのか

そもそも「あらゆる罪を犯した者は、その引き起こした結果」のみによって裁かれるのなら、量刑は非常にシンプルである。
けれど、そこに「情状」があるから現在の刑事裁判制度の成り立ちや意味があるのだと思う。
さらに、現在のように「少年と成年の端境期」にある加害者の問題に焦点が当たるのであれば、その判断基準は、ただ単に「生まれてから何年経ったか」という形式だけではなく、その加害者の「精神年齢度」が詳しく計れなければならないはずである。


つまり、企業の入社試験などで行われているSPI考査のような、いやもっと厳格な「成人度判定試験」がなければならないのではないかと思う。
そして、思えば中年なのに「子供としか思えない言動をとる人」とか、またエリート管理職でありながら暴言や、破廉恥行為を抑えられない人たちの性向も、同時に「テストされる」べきだろうと思う。
日本は、世界で初めて「大人テスト」が実施され、たとえ40歳を超えていようとも、そこで"認定不能"になったら「子供バッジのまま」になるような制度が設けられるかもしれない。

さすれば、政治家も、経営者も、ヤクザも、主婦も、そして子供も、「一定の常識」は持った人たち(あるいは合意した人たち)という集団に括れることになる。
人を篩(ふるい)にかけるようだし、またその時代の「常識とは何か」という難しい問題もはらむが、それにしても「精神が幼かった故に罪に問われない」という基準には矛盾を感じる。

もう一度自分たちは、「どのような"常識基盤の上"に生活しているのか」ということを定義し直す機会が訪れているように思うのである。

中日新聞より>
光市母子殺害事件最高裁判決要旨 

20日に言い渡された光市母子殺害事件最高裁判決の要旨は次の通り。

犯行時18歳だった被告は暴行目的で被害者を窒息死させて殺害し、発覚を免れるために激しく泣き続けた生後11カ月の長女も床にたたきつけるなどした上で殺害した。

甚だ悪質で、動機や経緯に酌量すべき点は全く認められない。何ら落ち度のない被害者らの尊厳を踏みにじり、生命を奪い去った犯行は、冷酷、残虐で非人間的。結果も極めて重大だ。

殺害後に遺体を押し入れに隠して発覚を遅らせようとしたばかりか、被害者の財布を盗むなど犯行後の情状も悪い。遺族の被害感情はしゅん烈を極めている。

差し戻し控訴審で、故意や殺害態様について不合理な弁解をしており、真摯(しんし)な反省の情をうかがうことはできない。平穏で幸せな生活を送っていた家庭の母子が白昼、自宅で惨殺された事件として社会に大きな衝撃を与えた点も軽視できない。

以上の事情に照らすと、犯行時少年であったこと、被害者らの殺害を当初から計画していたものではないこと、前科がなく、更生の可能性もないとはいえないこと、遺族に対し謝罪文などを送付したことなどの酌むべき事情を十分考慮しても、刑事責任はあまりにも重大で、差し戻し控訴審判決の死刑の量刑は、是認せざるを得ない。

宮川光治裁判官の反対意見】
被告は犯行時18歳に達していたが、その年齢の少年に比べて、精神的・道徳的成熟度が相当程度に低く、幼い状態だったことをうかがわせる証拠が存在する。

精神的成熟度が18歳に達した少年としては相当程度に低いという事実が認定できるのであれば「死刑を回避するに足りる特に酌量すべき事情」に該当しうる。

被告の人格形成や精神の発達に何がどう影響を与えたのか、犯行時の精神的成熟度のレベルはどうだったかについて、少年調査記録などを的確に評価し、必要に応じて専門的知識を得るなどの審理を尽くし、再度、量刑判断を行う必要がある。審理を差し戻すのが相当だ。

金築誠志裁判官の補足意見】
人の精神的能力、作用は多方面にわたり、発達度は個人で偏りが避けられないのに、精神的成熟度の判断を可能にする客観的基準はあるだろうか。

少年法が死刑適用の可否について定めているのは18歳未満か以上かという形式的基準で、精神的成熟度の要件は求めていない。実質的な精神的成熟度を問題にした規定は存在せず、永山事件の最高裁判決も求めているとは解されない。

精神的成熟度は量刑判断の際、一般情状に属する要素として位置付けられるべきで、そうした観点から量刑判断をした差し戻し控訴審判決に、審理不尽の違法はない。