藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

大学、の意味。

内田ブログより。
大学のナマの声を聞くようで身につまされる。

大阪府吹田市のある大学(気の毒なので名を秘す)に、08年、現代社会学部が新設された。
しかし、来年(09年)、この学部は募集停止になる。
おそらく大幅な定員割れだったと想定される(受験者は20人余。入学者は非公開)。


もう一つ、これも関西のある大学の話。
この大学は08年度から人間教育学部を新設した。
1966年に開学したときの文学部を94年に募集停止して、国際文化学部を設置(文化学科、言語コミュニケーション学科)。
02年に情報コミュニケーション学科を設置した。
文学部から国際文化学部への事実上の改組であるが、それも12年しか保たなかった。


06年に国際文化学部が募集停止。
そして人間教育学部に衣替えしたのである。


冷たいことを言うようだけれど、この人間教育学部も長くは保たないように思う。


大学に通う意味、というのも、ここ数十年、いや戦後でずい分意味が変わった。


「学士さん」といい意味でエリート視され、私立でも国立でも一角に見られたのはすでに二十年も前か。


それから、ゆるゆるとながら、「大学さえ出れぱ」あるいは「大学くらいは」という常識が周辺を支配し、今にいたる。

変わる価値観


今や「とりあえず」の大学は全然意味がなく、その「十代の過ごし方」を企業などは問う。


先の大学が「シェルター」的な安全性を持っていたのに対し、もっと透明化している。


当然ながら、花嫁修業的な進学は減り、また学校の数も減る。


「横並び」で大学に行くのではなく、「やりたいこと」を中心にいろんな職業選択の機会がある。


これも社会の成熟、で「ともかく大学」ではなく、「学びたい学部作り」が大学の存在そのものにつながる、という方向か。


それにしても「とりあえず進学」という常識がなくなった途端、何のために学ぶのか、ということに明快な答えを出せぬ日本の大学連は、今一度その本来の存在意義を問うてみるべきではないか、と思う。