何のことか、とも思うがこの年にして、人生を過ごす「過ごし方」というのも当人の考え方一つなのだ、と改めて感じる。
「そんな目」で見ると、それまでの悩み、というか価値観というか「自分がこだわっていたこと」は何なのだ、と目から鱗、というか本当に「瘧が落ちた」ような気分にもなる。
「その感覚」こそを伝えたい。
余計な説教など言わずもがな、だ。
音楽はjazzでいい。
自分の価値観など、その辺の石ころみたいなものなのだ、などと自嘲してみたり。
ただ色んなことをそんな風に「達観」してゆくと、どんどんと「欲望」というものから遠ざかり、そればかり考える「脂の抜けた」ような人間になってしまうことになる。
そんな人間は、実社会でなかなか商売などしていられない。
いえいえ、代金なんて結構ですよ、というのは実社会のどこででも通用する話ではない。
(一部の御用達社会、では通用したりする。)
重要なのは「自分たちはそんな実社会」に身を置いて日々生きながらえていること。
けれど、その日々の中でどれだけ脂っこくなく、ギトギトせずに生活できるのか、という道を探すことなのだと思う。
そんなことを考えていたら「生きること」のプロてのもあるんだなあ、と思った次第。
あるプロフェッショナル
人生をプロ的に生きる、とは一重に「楽しめるかどうかだ」と考える。
そういえば、十数年前、重度の病を患う子を持つ女性から「母親の役目として最大の働きを、自分はさせてもらっているのだ」という発言を耳にして絶句したことを思い出す。
前向きという言葉では説明しきれない「何か」は病という現状を受け入れ、それを「楽しむ姿勢」があったのではないかと思う。
それは彼女の生きるための知恵、とも言えるが究極的な価値観の転換でもあったと思う。
当時は自分などにその真意はくみ取れるはずもなく、エラい人だなあ、という程度の感想しか持てなかったが。
彼女は生きることのプロフェッショナルだったと思う。
それはともかく。
周囲で勉強に悩む人、
人間関係に悩む人、
お金で悩む人、
恋愛で悩む人、
前途に悩む人、
過去に悩む人、
立身出世に悩む人、
親子のことに悩む人、
生きることは「果ての見えない、ゆるくて長い坂道を行くということだ」とは徳川家康の言葉とか。
生きる=悩むこと、というくらい人には悩むという能力が備わっている。
だからこそ、「悩み」に入ったら考えたい。
「本当にそれは、それほどの悩みなのか」と。
(つづく)