藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

生きるプロのこと-その二。

ズバッと割り切る考え方


悩みは、自分に関係のあることだから悩む。
「杞憂」は天が落ちて来はしないか、という故事だが、地球温暖化対策にゴミの分別はしても、大隕石の衝突を心配して毎晩天体観測をする人はいない。(ふつうは)

かの「7つの習慣」の一つ「影響の輪と関心の輪」である。

影響の輪、つまり「自分で何か改善しうる」ことにのみ力を振り向ける。
関心の輪、である「気になるが、自分では何ら手を出せないこと」には心を煩わせないこと。

泰然と、むしろ「それ」を受け入れること。

結局「自ら動きなさい。そして手を出せないことには思い悩むのをやめなさい。」という一言に尽きるが、生きるプロとはそういったふるまいが日常的にやれる人のことなのだろう。

と気づいたのは、つい最近のことだ。
年は取ってみるものである。(憮)


これがイヤだ。
誰が嫌いだ。
社会がおかしい、政治が悪い。
相方が悪い、思いやりがない。


部下ができない、社長がアホだ。(汗)


と他所に犯人を捜しまわり、醜い顔で怒鳴っている人に比べたら、この生きるプロというのは、なるほどプロだ、と納得してしまう。

アマとプロ、と言えるほどにその生き方は違っている。


若い世代に、それもできるだけ幼いうちに「そんな価値観」を伝えていくべきではないか。
「それ」を備えているといないとでは、場合によっては「二十歳以降の人生の過ごし方」に雲泥の開きが出てしまうと、今ころ思う。


中年以降になってもそういう価値観が分からず、「カネまみれ、権力まみれの見栄まみれ」と亡者になっていることほど醜悪なものはない。
また周囲に毒を撒き散らかし、憤怒の姿態を晒しているのはご当人が自身の「人生」を楽しむことができていないことの証左で憐れですらある。

逆に淡々と「プロ」として生きている大人は楽しそうだし、どこか涼しげだ。


ハラが立って、怒鳴ってしまうとき。
「生きるプロならどうするか」を一瞬考えてから言うべきは言う。
目の前に鏡を置いておくのもいいだろう。


「あー人生楽しくない」という、そこの若い人。
↑ハイ自分がそうでした。


「楽しい人生」なんてないですよ。と。
そん代わり「人生を楽しむ方法がある」という「知ってる人」から見ればごく当然のことを一言申し添えたい。


「人生、思い通り」は真言(本当のこと)だし、
「人生の楽しみ方」はその処方が実は「自分自身の心の姿勢にある」、ということは気付いてみれば目からウロコ。

幸せの青い鳥は、すぐ足もとにいた。


や、何のかんのあるけれど、人生「結構楽しい」のである。