藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

まつりごと、の本分。


消費者庁は、本日発足。


総選挙が終わり、大物と言われる政治家がバタバタと落選するのを目の当たりにすると、何か薄っぺら感というか、選挙と言うのはあくまで得票数の結果でしかないのだな、という当然のことを思い知る。


そのために、なりふり構わず「お願い」や「必勝宣言」を連呼する立候補者はとても正気には見えぬが、「得票」ただその一点だけに着目すればあれが選挙運動そのものなのだな、と改め納得。


それにしても鳩山党首の「脱官僚」の響きに旧勢力はすでに反応している。

消費者庁の人事とか、予算の概算要求見直し、とか「核心」を突かれては、生きた心地がしないのだろう。

そんな様子を見ていると、つくづくどんな権力も「停滞」というか「安住」というところに死角があるのだな、ということを強く感じる。

何も難しい、偉い人たちのことばかりではない。


自分と友人の間、とか
自分と彼女(彼氏)の間、とか
夫婦の間とか、
親子の間とか、
友人との間とか、
上司と部下の間、とか
お客さんとか、仕入先との間、とか、何でも。

まあこんなもんでいいだろう、と思って安住した途端に、緊張感がなくなる。

つまりそのポジションに「胡坐」をかいたら、とたんに水が濁る。



宮本武蔵は相手との対峙に際し、常に「澱まぬこと」を気遣ったというが、さもありなん。
「停滞」は「淀み」を生み、腐敗を誘うのだろう。

いかなる権力も腐敗する、とは先人の言葉だが、新陳代謝、というのはそれだけで必須な組織運営の概念なのだな、と思う。


安心、とのトレードオフ


それにしても。
常に自分の心に緊張を強いる。
安住しない。
胡坐をかかない。


簡単なようで、難しい。
せっかく手に入れた地位や安定を、自ら「ないもの」という心理状態で俯瞰せよ、ということである。
せっかく当選したのに。
せっかく出世したのに。


あえて、「そこ」からさらに外へ向かって視野を広げる。
努力して、何かを獲得して、そしたら「さらにその先に」。


自分たちの営みは、すべてそんな法則に則っているようだ。
だから「へへへっ」とゴチている時間はなく、どんどん先に向かって目を向けていかねばならない。


そうした考えでいてこそ「慢心」という人間の最大の弱点から逃れられるのだろう。
厳しい話だが、努力する人ほど、偉い人ほど「驕らぬこと」の価値が増してくる。


結局、努力に終わりはない、ということなのだろう。
人間の心理とは実に深いものだ。