藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

気にしー。


関西弁で「気にしい」という。
どういう意味か。
「人の反応を気にしすぎること」とか「自分のした行動の結果をいつまでもくよくよしている人」というような意味である。
人は、いや結構多くの人は「気にしー」である。
意外に。


「あの話を彼に先にしたのはまずかったかな」とか、
「私があの時声をかけなかったから彼女は連絡がつかなくなったのだろうか」とか。

実はこの「気にしー」の感情は、実は「自分の内面の弱さ」を反映しているということに最近気付いた。
それは、自分のしたことに「堂々としていられず」、自分自身が、自信なさげに「くよくよしてみせる」ことで、自分自身に言い訳的なジェスチャーをさせ、またそれが結果的に他人の目に触れて「私も気にしているのだ」という情緒性をアピールすることで、どこか贖罪を得ようとするような心の態度なのである。(と思う)

したがって「気にしー」が一番気にしているのは、実は「自分が他人にどうみられているか」であって、決して自分のしたことで、相手がどのような心理状態にあるか、ということではない。

そういう意味では、非常に欺瞞に満ち、「一見相手を気遣う風をみせつつ」「実は自分の映り姿だけを気にしている」というあざとい図式が見えてくる。
(まあことほど気弱だからイジイジするのだろうけれど)

影響の輪、の大切さ。


ここでも7つの習慣、である。
人間、だれしも他人とのかかわりを持ちながら生活する現代社会。
他人とはコミュニケーションの行き違いも少なくない。
夫婦や恋人同士でもそうだし、友人や家族などは頻度が高いだけにしょっちゅうである。
会話した相手を気遣う気持ちは失うべきではないだろう。


しかし、「ある程度まで」の話である。
自分が「こう」と思い、まともな気持ちで発した言葉が「相手にどう取られるか」というのはある程度「相手次第」にならざるを得ない。

自分が誠意を以て、相手のことを思って放ったことばならば、あとは相手の体調にもよる。

いつまでも「自分の態度を気にして」相手の出方を気にしてばかりいては、自分自身を失いかねない。
そういう意味では、常に真面目な会話を心がけていれば、必要以上に自分の態度を反省する必要もない、ということはとても重要な人づきあいの心得ではないだろうか。

今の若者は「傷つくことばかり上手になって」とよく年よりは言うが、実はそれは「相手の態度を見てすぐ自分に原因を返してしまう」という現代の若者の特有の優しさに原因があるのである。(という気がする)

少しは自分の言葉を信じ、傷ついてばかりではない「自分」というものをもたねば、いつまでもフワフワしてしまうではないか。


「お前、気にしぃやなぁー」という関西弁には、優しさと同時に「自立をうながす厳しいアドバイス」も内包されていたのだと思う。
てこういうことを書いている、当の自分こそが一番の「気にしー」ではないか?(と、これが「気にしー」そのものなんである)