藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

私を表わす言葉。


「知り合いにある資産家がいてね…」とか「お金持ちの叔父がいてさ」とかいう表現はよくある。「独身で中年の友人が」とか「バツイチの外資系の女性で」とか。

他人というのはそういう意味ではとてもクールだから、そりゃ色んな言葉で表現できるだろうその人を一言で「資産家」とか「金持ち」とか言う。
その人を説明するときに「ほら、ああいう人だからさ」という一節も便利だ。
その曖昧な表現で、聴き手には「聴き手なりのイメージ」を作り出して、「なるほどね」となる。
実に便利だが、何か内容の会話をしているような感じもする。

よく(なぜか)披露宴のスピーチで「新郎の人と"なり"は」と言うのも耳にする。
"人となり"というたったの四文字で、その人の性格とか思想とか、勤務態度とか交友関係とか、キャリアとか生い立ちとか、そんな辺りのものを一まとめにしてしまう怖い言葉である。(こわい、というのは恐いとも怖いとも書くのはなぜだろう。恐怖というのはこわいこわいだ。)

翻って岡目八目。
自分は何と表現されているのだろうか。
普段は自分自身では決して聞くことのできない恐ろしい話である。
「ある煩いおっさんがいてさ」とか
「ある中小企業のオヤジがいてさ」とか
「あるヘンな……」
それ以上は考えたくないような気分になる。
好意的な表現だろうと、嫌気的な説明だろうと自分が「一言でいえばあんな奴」というのは、裁判の判決が下ったような気分である。

その他人のイメージの世界では、「裁判長、聞いてください。実は私というやつは…」という聴聞の機会は与えられない。
恐怖裁判だ。

他人と言うのはそれほど他人のことを、冷徹に見ている。
ということを人と接触するときには考えておかねばならない。
ますます人嫌いになりそうである。