へぇーと妙に感心したことを思い出す。
分析とは比較の集積である、という話はそれからも自分の頭にずっと残っている。
自分たちは「自分と何かを比較する」ということを無意識にしてしまう。
当たり前の、それが自我(エゴ)だ。
どうやら人はこれからは逃れられないらしい。鳥を見て「羨ましい」と思うくらいだ。
「♪どうしてそう比べたがる〜」という歌詞があったが「それ」がなければ「わたし」も曖昧になってしまいそうだ。
つまり「自分は他人(外部)との比較でできている」ということだろうか。
しょうもない。
実にしょうもない。
けれど人里離れた山奥で暮らしていても、本質はあまり変わらないだろうとも思う。
そんな「気にしぃ(関西弁です)」の部分をあえて認めて「そいつ」と幼友達のように付き合う。
そんなメンタリティが50を超えても必要なのだ。
若者が自分のことばかり気にするなんて当ったり前だ。
糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン
・じぶんがいつもちゃんとしていると思っている人は、
それだけでは済ませられずに、
他のちゃんとしてない人を見つけては責めたがります。
じぶんがいつも我慢していると思っている人は、
なにかを我慢していない人を見ると、
そんなことじゃダメだと文句を言いたくなります。
じぶんが謙遜に地味にしていると思っている人は、
言いたいことを言ってる人や派手な人のことを、
あんなことでいいのだろうかと疑問視しがちです。
じぶんが正直者であって、
そのせいで損をしていると思っている人は、
損をしていない人のことを不正直者だと思ったりします。
じぶんのやっていること、じぶんの思っていることを、
じぶんだけのこととしてやっているのならいいのですが、
人は、どうしても、じぶんのようでない人を責めます。
責めたり裁いたり懲らしめたりしたがります。
じぶんのようでない人が元気で勢いよく生きていると、
じぶんが生きづらくなると思うのかもしれません。
たいていの対立は、「あんたの幸福は、わたしの不幸」
ということを動機にしているようです。
「あんたが元気だと、わたしは生きにくい」
と思ってしまうと、相手の力を弱めたくなる。
ほんとは、人の社会もひとつの生態系だから、
どれかの生きものが元気だというだけで、
別のどれかの生きものが滅びるというような
単純なものじゃないと思うんですけどねー。
おおざっぱに言えば、他人のことを考えなくても、
「おれは、こうしている」でいいじゃんってこと、
たくさんあると思うのです。
じぶんのことよりも、とにかく他人にばかり目をやって
「けしからん」と責め立てているというのは、
だれも(結局はじぶんも)よろこべないことです。
まずは、「わたしはなにがしたいんだろう」ですよね〜。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
老人になったら、気をつけていたいのはこういうことかも。