藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

無関心な人々

味があって大好きな浅井さんのコラムより。

「それがぼくにはわからない。しょせん他人の出来事さ。だったらもっと興味を持つべきことがいっぱいあるのに、何が松井だ」

「きみは松井が嫌いなの?」

「いや、好きでも嫌いでもないけど、なんだかばかばかしい気がする」

この感覚を何というのだろう。
とても共感する部分を感じる。
自分も松井選手が好きでも嫌いでもないが、その「ばかばかしい」という感覚。
何か妙に腹立たしいのはなぜだろう。
浅井さんはこの後、

近頃、人々がなにかに関心を持たなくなった。
世間で起きている事柄や、そこに生きている人たちにひどく興味がなさそうだ。
すぐに、それがどうしたみたいな感覚で反応する。

と、今の人々の無関心、を嘆く論調だが、自分は違う感覚を持った。
「余計なものに関心を持ちすぎていないか」と思うのだ。
ニュースや事件に興味を持ち、ただその「噂話」で毎日が過ぎてゆく。
清涼飲料水(これも妙な言葉だ)のように時間を消費している感じがして仕方がない。
冒頭「ばかばかしい」と発言したのはTVのディレクター氏とのことだが、彼が言う「だったらもっと興味を持つべきことがいっぱいあるのに」と自分も言いたい派である。

ある種の人々は、いのちがあるから、ただ生きているのだぞ、といわんばかりにその日を暮らしていく。(中略)
そんなところへ、そんな時代に自分の存在がどんな意味があるのかも考えない。

結局はここへつながる。

人に関心をもって、つまり「自分」へとつなげること。
あるいは人ごとには「気を散らさずに」自分の関心事へと目を向けること。

結局そういう具合に「掘り下げて考えてみろよ」と浅井さんは言っているような気がする。
一見何気ないコラムだが、浅井さんの文章にいつも惹きつけられるのは、人間の深みからくる「語り」が行間に漂っているからだと思う。
短いコラムだが、浅井さんと会話したような気持ちになった。

無関心な人々
「エンジェルスの松井がホームランを打ったらしい」

「松井もたまには打つよな」

「たまでもないだろう」

「たまだよ、4番バッターがあれじゃね、大リーグもたいしたことないね」

茶店でお茶を飲んでいたらこんな会話が聞こえてきた。二人の若いビジネスマンらしい男たちだった。すると、ぼくの友人がぽつりといった。

「くだらない」

「なにが?」

ぼくは友人にいった。

「なにがって、松井だろうが、誰だろうが、野球やっていれば、ホームランは打つさ」

なんといっても彼はぼくよりずいぶんと若い。彼の仕事はテレビ局のディレクターだ。

「何が面白いのかね」

「そりゃあ、ファンなら面白いだろうさ」

「野球をやっていれば色々のプレーがあるさ」

「それを楽しむのがファンというものだろう」

「それがぼくにはわからない。しょせん他人の出来事さ。だったらもっと興味を持つべきことがいっぱいあるのに、何が松井だ」

「きみは松井が嫌いなの?」

「いや、好きでも嫌いでもないけど、なんだかばかばかしい気がする」

こんな会話をした後、ぼくは一人になって考えた。近頃、人々がなにかに関心を持たなくなった。世間で起きている事柄や、そこに生きている人たちにひどく興味がなさそうだ。すぐに、それがどうしたみたいな感覚で反応する。

知り合いのフリーターに、君のやりたいことは何だと聞いたら「別に」といって煙草をふかしていた。その眼は遠くを見るわけでもなく、店の中(そのときも喫茶店にいた)のどこを見ているのか、眼を泳がせていた。

ある種の人々は、いのちがあるから、ただ生きているのだぞ、といわんばかりにその日を暮らしていく。いや、ぼくにはそんな風に見える。たとえば、本は読まない。テレビジョンも、ちらっと横目で見るが、反応しているわけでもない。満員電車に乗っても、何故こんな状態が続いているのだ、という疑問も持たない。そんなところへ、そんな時代に自分の存在がどんな意味があるのかも考えない。

松井選手がホームランを打っても関係ない、それはわかるが、すべてに無関心なのは何故なのだろう。つまらない世の中が、つまらない人々をつくってしまったのだろうか。それでも友人のテレビディレクターは「ワイドショー」をつくり続けている。
<どらく より>