藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

実はキャッチボール。

自分が言いたいこと、と相手が聞きたいこと、はしばしばズレているらしい。
商談でプレゼンしても、ちっとも伝わらない、というのはよくあることだ。

一方的に愛の告白をしても、全然相手に伝わらない。
「熱意」は伝わるかもしれない。
けれど相手の関心ではない。

つまりプレゼンテーションというのは実は「会話」ではないのか。
いつも「こちらが完璧だと思うシナリオ」を用意して、「何とかこちらの物語に引き込んでしまおう」
とばかりにやらかしてしまうが。

興味のない相手に「私の生まれは…」とか言っても聞いてもらえない。
どこか「とっかかり」を探しながら、うまくかみ合うようなアクションが要りそうだ。

"「来る高齢化社会のながら介護」には関心がおありでしょうか?"
などと聞きながら、できればプレゼンの内容も臨機応変に変えるくらいの準備がないと、完璧とは言えないのじゃないだろうか。

できれば3通くらいの、想定できるシナリオを準備しておきたいものである。
「これから眠る子」の反応に応じて、展開や結末を変えるくらいのつもりで行きましょう。

ほぼ日刊イトイ新聞

・一冊の本を、はじめから最後まで読み通して、
 これだったら、「はじめに」の部分と
 第1章を読むだけでよかったんじゃないかと、
 思ったことはありませんか。
 ぼくはあります。
 特に新書なんかの場合は多いです。
 だからといって、「はじめに」と「第1章」だけでは、
 本という商品にならないのでしょうね。
 つまり、書籍という商品の場合、
 ある厚さがないと、人はお金を出してくれない。

映画でも、15分くらいの長さでおもしろいという作品は、
 きっとつくれると思うのですが、
 やっぱりいまの時代だと90分以上ないと、
 商品として認めてもらえないでしょうね。
 15分の映画だったら、入場料300円だな、とかね。

逆に、ネット上の表現なんかだと、
 どんどんどんどん短いものが要求されてきていている。
 昔だったら400字詰め原稿用紙がひとつの単位だったし、
 もっと簡便なもので200字詰めだった。
 しかし、いまおそらく400字は「長文注意」とか、
 妙なことを言われてしまいそうである。
 おそらくこの調子だと、20文字以内で
 あらゆることを語る「べき」だと言う人も出てきそうだ。
 一方で、上下巻の長編小説はベストセラーになってるが、
 「長過ぎる」と文句を言う人は見たことがない。
 いっそ、だれか言い出してもいいような気もするけど。

時間にせよ、モノにせよ、量は「表現」である。
 とにかく「量感」があればいいという商品だってある。
 逆に、軽い小さいだけで勝負している商品だってある。
 それぞれの「表現」が、質とは別に、
 どんな「量」で受け容れられるのかを、
 送り手のほうは、真剣に考えなくてはならないだろう。

指圧とかマッサージなんかも、気持ちよくて効くのなら、
 10分で同じ料金を払ってもかまわないとも思うけれど、
 現実のぼくは、うたた寝できるくらいの長い時間を、
 「あああ、もっともっと」と望んで横になっている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
この『今日のダーリン』の文字量だって、どうなんだろう。