藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

インとアウトの差。

酒場に入るとあまりしゃべらないようにしているのだけれど(理由は自分が口が過ぎて過度に語ったりして翌日反省するから)、それにしても話す話題は「好きなこと楽しいこと」と「嫌いなこといやなこと」とはどちらが多いだろうか。

ぼくのなかにも、そういう部分があるにはあるのですが、
 どうしてわざわざ、眉間にしわを寄せて、
 「わたしはそれが嫌いである」と言いたがるのでしょう。
 じぶんの好みに同意してほしいのかなぁ。
 いっしょに、嫌い嫌いと唱和してほしいのかなぁ。
 嫌いなものごとが、滅びればいいと思ってるのかな。

今度飲みながら数えてみようと思っているが、自分の場合は半々くらいだろうか。
つまりそれほど「嫌なことについて」人に話しているわけだ。
そして大抵は「ですよね」とか互いに言い合っている。

女性は特に共感というよりは「話したい」欲求が多いらしいけど、男は「うんうん」と共感してもらいたいものなのかもしれない。
隣り合わせた知らない人とも、共通の話題を探そうとするのはやはり「何か一緒に話してみたい」という気持ちが根っこにあるのだろう。
人に聞いてもらいたいとか、
ともかく誰かに話したいとか、けれど人の話を「聞いていたい」という願望って薄いような気がする。
耳はよく聞くために二つある、とは言うけれど「話すより聞くこと」をもう少し優先しなきゃいけないのじゃないだろうか。

・ねこのしゃべりの語尾って、「ニャ」ですよね。
 「そうニャ。ねこの語尾はニャって言うんニャ」ってね。
 こういうのって、あんまり好まないつもりだったのです。
 でも、いつのまにか、「ニャ」っていいなぁ、と。
 いかにもねこがしゃべってるみたいで、いいな、と。
 かわいいじゃんっ、と。
 
 ねことぼくの距離が近くなったのでしょうかね。
 好きとか嫌いとかって、変わらないと思われてますが、
 これはこれで変わるものなんですよね。
 
吉本隆明さんが『真贋』という本のなかで、
 「無意識のうちの答えが決まっている価値判断は、
 無意識のうちに人の心を強制します。
 明るいからいい、暗いからだめだ
 という単純な価値判断を持っていると、
 そう思えない自分、そうではない自分を
 追いつめる結果になってしまうからです」
 と言っています。
 まぁ、その、「ニャ」を好むようになったなんてことを、
 ずいぶんひっぱるようですが、そうだよなと思ってね。

・「わたし、そういうの嫌い」と、
 好きでないものについて、
 ことさらに言いたがる人がいます。
 ぼくのなかにも、そういう部分があるにはあるのですが、
 どうしてわざわざ、眉間にしわを寄せて、
 「わたしはそれが嫌いである」と言いたがるのでしょう。
 じぶんの好みに同意してほしいのかなぁ。
 いっしょに、嫌い嫌いと唱和してほしいのかなぁ。
 嫌いなものごとが、滅びればいいと思ってるのかな。
 そうする理由はよくわかりませんが、
 その場に「反対意見を言いにくい」ムードが流れます。
 あれは、あんまりやらないほうがいいかもしれない。
 ぼくも気をつけてみます。

・うちの(ナイスだけれど)心の狭い犬が、
 ねこを敵視しているので、その影響を受けて
 ねこを敬遠していた時代もあったのですが、
 いま、ぼくは、その世界を抜け出しているんニャ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
語尾でその人を表すって、あんがいおもしろいんだよなぁ。