藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

箱入り男子。


特に男性に目立つ。


箱入り。
非常に素直に育ち、また自信もその育ててくれた両親に心から感謝をしている、そんな「絵に描いたような良い子供」を頻繁に見かけるようになった。


自分の幼少期には「そんな子供」はいなかった。(ように思う)
親のことは別にみな嫌いではなかったと思うが、「家庭団欒で、いつも家族で話し合っている」とか「親に感謝している」とかそんなことを口にする子供は周囲にはいなかった。
仲の良い家族、は存在したと思うが、「身内である両親に素直に感謝の辞を述べる」というのは、特に関西圏では稀だったように思う。
(まあなんて妙な人たちなのでしょう)


そんな彼らを見ていて、自分も親として「そんな素直さ」というのは見習わねばならないな、とも思う。
特に身内に対して正式な挨拶をする、とかお礼を言う、とかいう当たり前のことが出来ていないのに、相手には「以心伝心」を期待する、という無理のある人間関係を自分などはよくイメージしていることに気付かされる。
ずい分身勝手な話である。
それはともかく。

豊かだからギラつかない


その箱入り息子たちは、実は「草食系」とつながっているのでは、と思った。何か彼らは老成しているというか、達観しているというか、ともかくギラギラしていない。


自分の世代(四十)のように、高度成長期の余波を受け、「気分だけはイケイケ」の世代と異なり、彼らの世代(三十代以下)は恐らく「精神的に真に豊か」なのではないかと思う。
自分たちが学生のころには風呂なし、共同トイレの下宿に住んでいる学生の方が圧倒的に多かったが、今周囲で聞いてもそんな人は皆無である。

「自分の部屋のバストイレが欲しい」というベーシックな欲求が満たされた時点で、人間は「それ以上」を大して望まないのかもしれない。

自分たちも「それ以上」を望んでいたわけは、単なる「見栄」ではないかとも思う。

自然体という高級さ


今の若い人は「見栄なし世代」なのではないだろうか。
そんなに突っ張って、肩で風切って歩かずとも、「ほどほど豊かで十分ではないか」。

そんな心境に至れるのは、ずい分と精神が落ち着いていて、大人な価値観がある、ということである。

自分たちの世代は、やっぱり見栄を張りたかった。
それが当然と思っていた、まあ見栄はり世代である。
意味なく上昇志向だったのかもしれない。


それが結局肩肘張った、ずい分と窮屈なものであり、リラックスして人生に望めば案外楽に過ごせるということだろうか。

価値観の潮目-50年後の若者たちは…


「出世したい?」と聞くその「出世」ということばが、もうかなりカビくさい感じがするように、ひたすら上を向いて、アグレッシブに、という価値観から脱却したのだろう。


戦後65年。
ゆるく流れる時間の中にいると気付かないが、確実に時代のパラダイムシフトは起きているのだと思う。
三世代くらい後の人(50年後に生まれるくらい)の考えをぜひ聞いてみたいものである。


驚くほど質素、精神的なものになっているのではないだろうか。
彼らの「その後」に必要なものはソフト、ハード含めてどんなものだろうか。