藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

未来スタイル。


原発へ依存している3割のエネルギー。
この度の震災を機に、エネルギー消費方法の大転換、をしなければならない。
こんな形で「低エネルギー」を意識することになるとは何とも無念の思いだが、「これまでの価値観を変えること」というのはどのような局面でも非常に難しい、ということを実感するばかりである。


働く時間を三割短くして、同様の結果を狙うこと。
遊ぶ時間、趣味の時間も三割短くして、同様の楽しみを見出すこと。
ゴミやお風呂やトイレや食事。
そんなものをぜーんぶ効率化してゆくことがこれからの価値観であり、美徳になるのだろう。

成長以外になかった。


思えば高度経済成長、という言葉の「高度」というのも曲者だった。
そこには「より良い」というような言外のニュアンスが付きまとっていた。
初めての大敗戦を経験し、他に選択もなかった。
90年代にバブルが弾けても、誰も「もう次は止めよう」とは言い出さない。
というよりは言い出せない空気が国中に充満していたと思う。
「そういう」発展を抑止するようなことを口にするのは「負け組だ」という意識が、互いを縛っていたのである。


日常もしばしば感じる機会があるが、周囲の空気に逆らう「懐疑的」な発言は緊張を生んでしまう。
いわゆる「白い目」で見られる。
自分たち(日本人)は無意識にそれを避け、迎合する性質を持っていると思うのだ。

自分の常識を持つ。


自分たちは、そう言われなくても「独自の生活様式」を持っているものである。
独自の健康法とか、食事についてのポリシー(ベジタリアン)とか、仕事観とか家族や友人との付き合い方とか、その他いろいろ…。

そのいろんな「独自ポリシー」の核心は「時間の使い方」ということに集約されると思う。

時間は連続して、それこそ片時も止まることなく過ぎてゆく。
だから「使い方」に意識が及びにくいという性質を元々もっている。
つまり「何もしないでも」過ぎてゆく。
これを「世界最大の公平」と表現する人もいるが、それは「とっても怖いこと」でもある。


でも逆に言えば、24時間の過ごし方を制すれば、それは「自分なりの人生」を主導的に過ごしていることにもなる。
そして「そんなこと」を心がけながら、周囲の「新しいスタイル」を観察し、自分の今の常識になっていることと比べてみれば良い。
他人が遊びに興じ、現(うつつ)を抜かしていることは、全然「羨ましいこと」ではなくなるだろう。

もう「隣の芝生」が気にならなくてすむ。

競争と研鑽は別物である、と思う。
ただひたすらの競争は、勝つことそのものが自己目的化し、モンスターとなる。
もう「勝てば官軍」の時代ではないのである。