藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

生きるのに相応のエネルギーで

養老さんのコラムから。
こうして戦中、終戦、戦後を通して知っている人の発言は、近代社会では非常に貴重なものになるだろう。
オーラルヒストリーとして、少しでも自分たちはその生の発言を聴き、また疑問を対話しておかねばならないと思う。
もう二十年経てば、「戦後しか知らない」とか
バブル経済しか知らない」とか
「バブル後しか知らない」とか
「失われた二十年しか知らない」という風になって、たちまち二十一世紀の今みたいな時代に辿りついてしまう。

生まれたころからネットと携帯電話があり、高度成長期すら知らない子供たちは、自分たちの未来をどのような価値観で設計してゆくのだろうか。
よく"第二次大戦の責任問題は未だ決着せず"と聞くが、こうした「決着を付けない性質の国民性」は後進たちへの「責任の価値観」を非常に濁してしまっていると思う。

ちょっといきなりだが、今の原発の責任問題などもその証左ではないだろうか。
犯人探しは大変だが、それでも「今の歴史観から」の定義をきちんとして、責任を取るべきは取り、"今後の行動規範"にしてゆかねば、今の日本にはそうした物がまるでない。
政治も行政も"高度な無法地帯"のような気がするのである。

経済界も疲弊しているが、相変らず「規制とルール」は現実を後追いするばかりで、国際市場を健全に運営するルールが先行する気配は全く見られない。

これからのエネルギーについて

現代の日本人はどのくらいの外部エネルギーを使っているか。それを生物学者本川達雄さんが計算しています。四十倍だそうです。四十倍の外部エネルギーを使うようになった。それが私の子ども時代の生活と、現代とを分ける最大のポイントではないかと思います。

この四十倍に膨れ上がった今の生活は、これから「新たなエネルギー源」が得られたとしても、さらに膨れ上がらせるべきではないのだろう。
自分の私生活のためにエネルギーを使うのではなく、もっと大きな方向の目的のためにエネルギーを使う、という高級な文化が必要なのに違いない。
また養老さんは言う。
今のネット/IT社会について。

それをまとめて、なにがどう変わったのか。人間は体ではなく、頭になりました。もっと限定して言えば、意識です。人はいまでは体ではなく、意識の世界に住みます。それを私は「唯脳論」という著書に書きました。脳のなかの世界に生きるようになったのです。そう表現するしかないでしょうね。一日平均六時間、インターネットを見ている若い人たちは、他人の意識が生み出したものだけを見ているわけです。考えようによっては、インターネットは脳のなか、意識のなかです。

氏はこれを否定するのではなく、「生きてきて最大の変化の一つ」と俯瞰しています。
自分などはまだ一つか二つの変化しか見聞きしていないけれど、こうした先人の実感を聞いて、「それがなぜ起こってきたのか」というようなことに思いを至らせねばならないと感じました。

視点・論点 「シリーズ 私の子ども時代(1)」
2012年04月30日 (月)


東京大学名誉教授 養老孟司
 
私の子ども時代から現在までには、ずいぶん大きな変化がありました。世間の考え方も変わったと思いますし、日常の生活がとくに違ってきました。大げさにいうと、人類史上つまり人間の歴史で、日常生活がいちばん変化した時代を、自分が経験してきたのではないか。そんなふうに思うことすらあります。


私は昭和十二年、一九三七年生まれです。社会的にわかりやすい目安でいうと、終戦のときが小学校の二年生です。同い年の生まれには、加山雄三美空ひばりのような芸能人がいます。

記憶の始まりは、昭和十七年です。じつはこの年に父親が死にました。誕生日の前ですから、四歳の終わりになります。そのときのことをよく覚えています。それから幼稚園に行きましたが、すでに戦争中ですね。だからだんだん世の中が不自由になって、まず子どもの好きな甘いものがなくなりました。私はずっと鎌倉に住んでいますが、駅前にあった明治製菓の店で焼きリンゴを食べた記憶があります。これが市中で最後に食べた甘いものだったのではないかと思います。それ以外には、軍人さんがたまに持ってきてくれる、軍の携帯食料のなかに、甘いものがあったような記憶があります。

戦後に進駐軍が子どもにチョコレートをくれたのは、私の場合には本当です。鎌倉の長谷観音の前で米兵にもらった記憶があります。いまでもアジアの田舎で子どもに会うと、つい甘いものをあげたくなります。そのときの記憶の影響かもしれませんね。

その頃の生活は、いまの人にはちょっと想像が難しいと思います。まず服装です。半ズボンが冬でも当然で、中学に入る頃から、やっと長ズボンが当然になりました。テレビの珍百景という番組で、冬でも半そで、半ズボンという小学生が出てきたのに驚きました。あれは私には珍百景ではなく、日常の風景だったのです。

食料が大変で、甘いものどころか、調味料がありませんでした。昭和十九年に東大付属病院に入院していたことがあります。そのときの病院食の味噌汁は、落語の「ミソ倉」に出てくる、そのままでした。ミソももちろん代用ではなかったかと思いますが、実が入っていなくて、黒豆が入っていると思ったら自分の目玉だったという、あれです。

現在はご存知のように飽食の時代、糖尿病は予備軍を含めて数百万から二千万人といわれます。これはもちろん食べ過ぎの運動不足、私も例外ではなく、昨年の十月には糖尿病の悪化を指摘され、今年の二月に検査して結果が悪かったら教育入院だと後輩の医師に脅されました。仕方が無いので、食事を半分に減らし、駅までは歩くようにしました。二月に検査したところ、なんと正常値に戻っていました。ともかく同じ私という人間が生きている時代とは思えない違いです。

大学生くらいになって、アメリカでは蛇口からお湯が出るといわれて、なんと無駄なことをする国だろうと思っていました。お湯は必要なときに沸かすものだと堅く信じていたのです。いまではお湯の出ないマンションなんて、買おうとする人がいないんじゃないでしょうか。

戦争中でも鎌倉の駅前にはバスがあったと思います。ただし木炭バスでした。薪を燃やして走るんです。もちろん力がありませんから、坂道になると、お客が降りて押していたという、マンガみたいなことでした。

こういうことを全部総合すると、なにがどうだったのでしょうか。答えは簡単だと思います。エネルギーがなかったのです。石油はまったくなくて、沖縄特攻作戦に出た戦艦大和が 燃料を片道しか積んでいなかったというのは、有名です。大和ですらそうだったのですから、民間には石油もガソリンもあるはずがない。エネルギー・レベル最低の生活をしていたのが、われわれの子ども時代でした。要するに木材、木だけが主たるエネルギー源で、これなら古代文明と同じです。その古代文明から 徹底的にエネルギーを使う時代になったことが、社会と日常を変えた、最大の原因だったのだと思います。

人間も自分でエネルギーを作ります。医学ではその最低基準を基礎代謝といって、いわゆる絶対安静で、なにもしないでベッドに寝ていても使うエネルギーと定義しています。生きていれば呼吸もするし、心臓も動かしますから、エネルギーを作って、それを使うのは当然ですね。現代の日本人はどのくらいの外部エネルギーを使っているか。それを生物学者本川達雄さんが計算しています。四十倍だそうです。四十倍の外部エネルギーを使うようになった。それが私の子ども時代の生活と、現代とを分ける最大のポイントではないかと思います。
外部エネルギーがそれだけあるので、社会的にいえば、体を使う仕事だった第一次産業はどんどん比重が小さくなりました。人一人が出す力が、外部エネルギーに比較して四十分の一に下がったんですから、肉体労働の価値が徹底的に下がったわけです。人が体を使うより、機械に任せたほうが便利だ。そういうことになりました。便利ではなくて、エネルギー 的に太刀打ちができなくなったというべきだと思います。

もう一つ、違ったことがあります。いわずと知れた情報機器の発達です。私が子どもの頃のNHKは、まさに日本放送協会で、ラジオのことでした。いまではそれがテレビになり、ケータイとパソコンになりました。この変化はただいま進行中です。

それをまとめて、なにがどう変わったのか。人間は体ではなく、頭になりました。もっと限定して言えば、意識です。人はいまでは体ではなく、意識の世界に住みます。それを私は「唯脳論」という著書に書きました。脳のなかの世界に生きるようになったのです。そう表現するしかないでしょうね。一日平均六時間、インターネットを見ている若い人たちは、他人の意識が生み出したものだけを見ているわけです。考えようによっては、インターネットは脳のなか、意識のなかです。私が子どもだった頃は、そういうものは、当り前ですが、ありませんでした。世界はすべて、直接に感覚から入るものだったのです。いまではずいぶん違う世界になったんじゃないでしょうか。

人間の適応力とは、凄いものだと思います。どちらの世界 にも、私は生きてきているからです。でもこれからはこういう極端な変化は無いんじゃないでしょうか。年をとって、疲れてきたから、そう希望しているんですが。