この度の原発禍について、ついに政府が「賠償額に上限は設けない」というなどの方針を発表した。
東電は公的管理、となり新たな「賠償機構」というような名称で、受け皿機関が創設されるようである。
住専の時も、金融ビッグバンの時もそうだが、秩序は「乱される側」が非常に痛手を感ずるようである。
つまり「つぶすものはつぶしてしまう」という、いわば当たり前の経済原理で動いていたものが、実は「too big too fail」で、"もはや潰せない"存在、になるのは、これまでの日本を見る限り、まったく特殊な出来事ではない。
その際には、常に「国のため」とか「秩序の維持のため」という、一見もっともらしい"枕詞"が冠されており、一般市民である自分たちも、何となく「そんなものかな」と思ってしまうのである。
賠償の中身。
先日来、原発事故の責任の所在については、東電・政府・保険会社などがどのような見解を示すか、ということが話題になってきた。
だが、蓋を開けてみれば「政府丸抱え」に近い。
結局東京電力、という法人の意味は、危機に際しては無くなってしまったということである。
つまり東電は、上場して民間企業の様相を呈した「国営企業だった」ということである。
賠償の中身は果たしてどういうものだろうか。
ただでも火災保険と地震保険の関係は、被保険者には分かりにくいものだといわれる。
そこで今回はこの国難。
救済される人と、されない人、の分かれ目を、同じ被災地の中でどのように見分けるのか。
そして、その判断を実行するひとが、果たして市町村の職員で足りるのだろうか、間に合うのだろうか。
今のように、義援金・寄付金すら被災者の手元に渡る仕組みがない、ときくと、これからの複雑な復興支援の実務はとても大変なものだろうことが思われる。
賠償の範囲と、基準と、そしてそれら財源を充てた先にある「復興計画」を同時に考えていかねば、賠償金の取りあいばかりが問題になって、肝心の「その先」へと関心が向かわないのではないだろうか。
復興、という無二のテーマがあるゆえに、実際の運用には細かなルールと、大きな方針が必要である。
リーダーシップ、とは実務では正にこのようなことに反映されるのではないだろうか。
こうした有事の救済のルール、についてはこれから模索し、構築すべきルールがあるだろうと思う。
東電賠償額に上限設けず…希望退職・年金削減も
東京電力福島第一原子力発電所の事故の賠償策を巡り、政府は10日、東電による賠償を支援する前提となる6項目の「確認事項」をまとめた。
東電の賠償総額に上限を設けないとしたほか、政府が設置する第三者委員会が東電の財務実態を調査し、東電を事実上、公的管理することなどを盛り込んだ。東電は11日に確認事項受け入れを表明する方針で、「原発賠償機構(仮称)」の新設を柱とする賠償策の枠組みが一両日中に決定する。
東電は受け入れに合わせ、追加リストラ策として、希望退職の募集や企業年金削減の検討を表明する。
賠償策では、機構を6月をメドに創設し、東電を含む電力各社が資金を拠出する。政府も賠償原資として、いつでも換金できる交付国債を拠出する。東電は、賠償金が巨額になった場合に機構から資金を調達して原発事故の被害者に支払い、その後の長期間、機構に返済し続ける。機構は、今回の原発事故の賠償金支払いのための「特別勘定」と、将来の原発事故に備えるための「一般勘定」を設ける。電力各社は一般勘定への拠出を受け入れるとみられる。
(2011年5月11日03時05分 読売新聞)