藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

決断の集積。

原子力賠償支援機構法が成立した。
11社が出資して設立する支援機構が被災者の賠償にあたる東電を支援するという。

一部政治家の「東電を破綻(はたん)させると電力の安定供給に支障が生じるというのは言い訳だ。」
という言葉も道理、この話は"そもそも論"が抜けている。

こういうのも最近の政治の特徴である。
児童手当ではなく、なぜ新設の「子供手当」が必要か。とか


米軍基地はそもそも(今から)必要か。とか
尖閣列島(中国)とどう付き合いたいのか。とか
土台が決まらないから何も決まらない。

大きな方向性はあるか

これは大人の政治の世界だけのことではない。
我われは、自分たち一人一人が毎日「小さな決断」を連続して、してゆかねばならないのである。
(そしてこの「小さな決断」には7つの習慣の"重要事項を優先する"というのが劇的に効くのだが、それはともかく。)

自分が

「学問」とどう付き合うのか。
「友人」とはどんな存在なのか。
「異性」とはどういう姿勢で臨むか。
「家族」にはどうか。
「お客」へはどうか。
「上司・部下、つまり"仕事"」に対してはどうか。
「趣味」をどうとらえるか。

「そういったテーマ」は、日々過ぎてゆく生活の中で気づかないが「人生レベル」の長さでみると、それぞれ一つ一つがどえらく重大なテーマなのである。
いつまで経ってもこれといった友人ができず、異性とちゃらちゃらしている人がいれば、それは「そういう」人生を選択しているのであろう。
政治家の無策を嘆く人は多いが、それが翻って「自分の人生への取り組みは」と問い返すとハッとする。
そして、そうした「大まかなディレクション(方向性)」は、その人の"人間性(人柄)"を形成してゆく。
中年になってもそうしたディレクションを欠いていると、なにか軽い、「まるで子供のような大人」になることもある。


何となく、で日々を過ごすのはた易いが、ながーい年月を過ごした後に、後悔はせぬまでも「もう少し熱く生きたかった」と思う人生は勿体ない。
人の振り見てわがふりを・・・である。

原子力賠償支援機構法が成立 東電の資金繰りを支援
 東京電力福島第一原発事故の賠償を進めるための原子力損害賠償支援機構法が3日の参院本会議で、民主、自民、公明3党などの賛成多数で可決、成立した。みんな、共産、社民各党などは反対した。原子力事業者(原発を持つ電力会社など計11社)が出資して設立した支援機構が、被災者の賠償にあたる東電の資金繰りを支援する仕組み。政府は2兆円分の交付国債を発行し、機構の運営を支える。

 採決に先立つ討論で、自民党岩城光英氏は「賠償金の速やかな支払いは重要」と賛成する一方、「菅直人首相、海江田万里経済産業相ともに原子力に責任を持つ立場とは考えにくい。辞任し、新しい体制を」と主張した。みんなの党の松田公太氏は「東電を破綻(はたん)させると電力の安定供給に支障が生じるというのは言い訳だ。資本主義の原則を踏みにじるものだ」と反対した。

 政府提出の支援機構法案について、野党は国の責任が明記されていないことなどを批判。民主、自民、公明3党は衆院採決前に(1)被害者救済に対する国の責任の明文化(2)電力会社の無限責任などを定めた原子力損害賠償法の改正(3)国、東電、株主など利害関係者の負担のあり方の見直し――などを条文に追加する修正で合意した。