藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

形式主義。

東電の清水社長が辞任。
後任の西沢常務が質問に答える。
この報道はそれとして。
ここ十年くらい、JRの事故とか、情報漏洩とか、証券や銀行の破たんとか、大手メーカーの製造物責任とか、食品関係の事故とか、そして原発とか、「事故と謝罪の構図」が常態化している。


昔はなぜか「そんなシーン」はあまり見た記憶がない。
今は、まず「謝罪ありき」と言った感である。
企業の責任者が、今起きた事故について、法人を代表して謝罪する、というのはそれはそれで「それほどおかしいことではない」と思う。
けれど、何か血の通っていない「空々しい感じ」を感じるのは自分だけではないだろう。
そして同様、謝罪しているご当人も「同様の感覚」を感じているに違いない。
それは「当事者性」の問題だろうと思う。

リーダーの役割。


例えば、今の福島原発の案が持ち上がり、それを官庁・政府と話しながら地元と折衝し、原子炉を設計していった「当事者の人たち」は、今回の経営陣にはほとんど見られなかったようである。
つまり「法人として、"法人格"として社会とかかわっている責任の証として、数万の社員を代表して」謝罪をしている。
ぶっちゃけ「その社長」は「その事故にはほとんど関係なかった」という場合も多い。
JR西日本の事故しかり。
年金のデータ消失問題視借り。

「本当の当事者」は鬼籍に入っていたり、また「誰が首謀者か」という点においても、あまりに複数の関係者が絡んでおり、責任の特定が出来ない、というのは特に国家プロジェクト級になるとよくあることである。

日本では、政治がらみで作られた道路とか空港、新幹線の駅など「比較的地元びいきの政治家」のなした所業ですら、噂話程度にはなりこそすれ、真剣に糾弾され、罪に問われることは少ない。
また、それらを「たくらむ側」の人たちは殊のほか優秀で、そうした「複数犯による匿名性のある実行形式」をとることに非常に長けているのてある。


東電役員の高額報酬が、この度の事件でやり玉に挙がっているが、「似たような現象」は日本中の企業でいたるところにあるだろう。
たまたま、事故がらみで気づいたところだけを突っついている報道にも、もっと視野の深い調査が必要である。
そして、さらに言えば、そうした「東電の今の体質」の「現在の代表者」は清水社長かもしれないが、それこそここ数十年かけて培われた来た「日本のインフラ企業の典型」の姿である。
現社長にだけ批判を向け、スケープゴートにして「それでおしまい」というのでは、日本はいつまでも変わらない。


天下り問題しかり、「日本の政管のシステム」は敗戦後の影響から一貫して変化を遂げてきた「続きもの」の産物だと思う。
部分部分で汚職に走る政治家や高級官吏を摘発しても、「根元のシステム」はまだ変わっていない。
どこかの料亭のオーナーが、自ら組織的に「贖罪の使いまわし」を指示し、結果食中毒を引き起こした、というようなケースとは根深さが違う。

たまたま、失策や事故が露見したら、その時々の代表者が「過去をもすべて代表して」土下座すればよい。

今の大企業の態度は、そんな風に見える。

国民もメディアも、遡ってでもその構造的な原因に迫るような思考を持とうではありませんか。

西沢常務「徹底的に合理化」…東電一問一答
 記者会見での東京電力経営陣の主なやりとりは次の通り。
――社長辞任の理由は。


 (清水社長)「原子力への信頼を損ない、広く社会に不安や迷惑をかけた。けじめをつける」
――政府が支援の前提として示した「確認事項」にある金融機関への支援を求めるか。

 (清水社長)「低利での融資をお願いできればと思う」
――債務超過に陥る可能性は。

 (武井副社長)「今年度の社債発行は難しく、資金調達も厳しい。(資金繰りは)賠償額にもよるが、大変厳しい状況になる。一日も早く(賠償の仕組みを定めた関連)法律が成立して、枠組みができることを望む」
――電気料金の引き上げを検討しているか。

 (西沢常務)「現時点では考えていない」
――追加リストラ策は、政府が満足いくものと考えるか。

 (西沢常務)「電気事業の遂行、安定供給に関わらない分は徹底的に合理化する。最大限の努力をしたと考える」
――政府内で発送電分離の議論が出ている。

 (西沢常務)「海外事例を含めていろいろな角度から議論して決めていくべきだ。電力事業者として、主張すべきところは主張する」

(2011年5月20日19時48分 読売新聞)