藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

夢とはどんなものだろう。


「私の夢は…」とスラスラ語る人を見て、自分もそのくらいは「何かあるのだろう」と思っていたら、「うむ?」これがどうして、なかなか難しい。
安直に「世界一の…」と言ってみても実現のための小さな核心がなければ、ただの遠吠えである。
そして、そんな夢を語るには毎日の「割合しっかりした日常」が必要なことに気づく。
日常に何も努力せぬ人が、いきなり大きな夢を語っても、そこに現実感はないのである。

夢探し、自分探し。

個人的なことだけれど、自分は「自分にご褒美をあげる」という表現がどうにも好きになれない。
それは単なる甘えだとしか思えないのである。
ご褒美、はもしもらえるのなら「自分以外の環境」からもたらされるものだと思う。


で、それと似たような語感の言葉に「自分探し」というのがある。
「実は自分探しの旅を」などと聞くと、ちょっとひく。
何かチャラチャラしているというか、深みがないなぁ、と思ってしまうのだ。
ちょっと話題が逸れた。

なので、「自分の夢は何だろう」と常に自問していく、というのは案外悪くないことのように思う。
高校とか、大学とか、また就職とかを通して、その時々の年代で「自分の打ち込めること」を探せばいいのである。
社会人になっても「夢探し」は終わらない。
むしろ社会人になって「自立して一人前になりながら」、さらにそこから本当の自分を見つけてゆくようなものだろう。


したがって、単なる雰囲気ではなく、またありふれた世間の価値観に準じた「なんちゃって」ではない"夢"を本当に語るのは、なかなか格好のいいものである。
本当に真摯に打ち込み、さらにその上を目指す「求道的」なものに、だから我われは感動するのだろう。
今はまだ定かではないけれど、いつかきちんと「夢を語れる人になる」というのは念頭に置いておいてよい目標ではないだろうか。