藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

女性の苦労。

川上未映子さん、おめかしの引力より。


いつもながらに面白い文章。
今回は「乳首との闘い」である。
面白過ぎる。
これをまねて、自分も書いてみようかと思ったがやめた。

なぜ日本では乳首が透けた状態で外出することにこれほど強力な抑圧がかかっているのだろう。理由も解除の方法もよくわからないままに、わたしも何となく乳首の存在を感じさせない方向で生きてしまっているのが情けない。

確かに「理由も解除の方法もわからない」。
日本人の「恥じらいの感性」は乳首にあるのだろうか。
けど男はそれほど言われないし。
ということは「女を見る男たち」がほぼ主犯格であろうか。
男が女性の乳首を見て騒ぐから、こういう話になるのだろう。(逆はあまりないよね)

そういえば、外国ではブラジャーなしでTシャツを着ている女性はゴロゴロいる。
来日している外人さんもそうだ。
こちらは「オッ」と一瞬思うが、まあ堂々としておられればそれまでである。
男たちは、これからそんなオープンな流れになっても、それを推進するために、ぜひ「女性の前では凝視しない、騒がない」ことを推進してはどうだろうか。

求む、ブラジャー革命
夏である。みんなは水着とかお召しになって、海や恋人と戯れたり、プールサイドにうふんなんて言って寝そべったりするのだろうか。わたしそんなのしたことない。そして今年ももちろんしない。

わたしにとって夏といえばひたすらにブラジャーとの闘いだ。や、正しくは乳首とともに世間と闘う、という構図が正しいのだが、なぜ日本では乳首が透けた状態で外出することにこれほど強力な抑圧がかかっているのだろう。理由も解除の方法もよくわからないままに、わたしも何となく乳首の存在を感じさせない方向で生きてしまっているのが情けない。

猛暑のブラジャーは苦しい。もちろん下着の楽しみや、形の維持のために好んでつける女子もおられようが、つけずに生活したいときもある。ちょっとコンビニへ、ってなときにちっと舌打ちしてブラジャーを装着せねばならぬ忌々(いまいま)しさ。何かに遠慮している感じ。自己規制の可能性もさることながら、やっぱり何かに気を遣(つか)ってる。誰に?世間に。世間て?男性?そんなもん見てないよ!とおっしゃる男性もおられるだろうが、そこに乳首が浮かんであれば、やっぱり見る人も多いだろう。

どうすれば諸外国のように全方位に「乳首耐性」がつくのだろう。隗(かい)より始めよってことで、まずわたしが透け透けの状態で堂々と講演とかサイン会とかするべきだろうか。しかし「あの作家頭おかしいね」で終わりな予感も。何より人が去ってゆく。問題はこんな懸念が生まれることじたいであって、なんでこんなところでつまずいているのか、謎である。

象徴としてのブラジャーではなく、実存としてのブラジャーの気まぐれ撤廃を求むる気持ち。日本同時多発ブラジャー革命とか起きないかなー。着物からミニスカートまでやってきたのだから、やればできると思うのだけれど。あと3回くらいこの話したいよ!(作家)