「問題解決の手法」という呼称がそもそも胡散臭いけれど。
でも確かにそうしたことについての知恵、というのは存在すると思う。
で、よく言われるのが「何が問題か?を把握する力」について。
まあ、それが分からなければ、解決も覚束ない、というのは道理である。
で、「何が問題か?」がはっきりしたとする。
そうしたらその"問題"に向かって直に何をするか? という段階に移る。
自分の経験上、あるいは世間を見ても、もう「この段階にたどり着けた」らそこから先、成功しない人はむしろ少ない。
人間、「こいつが問題だ」ということがはっきりすれば、その問題が"ガンのような病気"であれ、"肉体的なハンディキャップ"であれ、"年齢的な制限を伴うビハインド"であれ、かなりの精度でその「困難な対象」に対して立ち向かっていくようである。
さらに、素晴らしい「精神力」を発揮して、一見難しそうな「壁」を超えてしまうという話は実に多い。
つまり、「自分の今の環境において"何が問題であるか?"を突き止めることが出来れば、その問題の過半は解決したも同然。」と言えるだろう。
自社の扱う商品が「なぜ売れないのか?」「何が買う人に躊躇させるのか?」ということに対しての回答がはっきりすれば、あとは「見える目標」に向かってダッシュするのみである。
もう迷いはない。
最も大事なエッセンス
思えば、人生も、その「見えない部分」が妙味なのだろうと思う。
つまり「この方向でこうすればいい」ということが分かっているような人生はつまらない。(のではないだろうか)
『よかれ、と思って踏み出した一歩が落とし穴、とか。』
『間違いのない堅実な道。と思ったのが、実は自分の本意ではない選択肢だった、とか。』
事前に「よかれ」と思った道筋は、決して後々"絶対のもの"ではないし。
けれどまた、経験したからこそ、ようやく分かるような「懲りない体験」など、実に数多いものである。
だから、自分たちは日々生きていく上では「何が問題なのか?」、「何が本質なのか?」ということを自問する能力が最も大事なのではないかと思う。
「大企業メーカーA社か、大手商社B社か、メガバンクC社か?」
「就職か、浪人か、それとも起業か?」
どれも切羽詰まった「自分にとっての選択肢」のように思えるが、そんなのは所詮、刹那的なこと。
"本当に大事なことはなにか?"を、例えば"鷹が高地から獲物を探す"ように、"ものごとの全体を俯瞰しながら"探索するような様子。
自分の将来に、本当に大事なことは実は「名のある企業に所属すること」でもなく、さりとて「いきなり企業家を気取る」ことでもなく、でもそうしたら「自分が本当に"打ち込めること"は何か?」ということを、自分という人間性と向き合って真剣に考えていかねば、一朝一夕には答えなどでないこと。
さらに、考えばかりを先行させても「実体験を重ねていかねば」実は分からないことも多い、従って「思案ばかりを巡らす」のではなく、自らも「走り出しながら、しかも真面目に考える」ということを日々積み重ねていかねば、実は自らの納得のいく答えなど出ないのだ、というような原理原則を、「自分で導くプロセス」が人間には必要なのではないだろうか。
どうしても、自分たちは「分かりやすいもの」に惹かれる。
だってラクだもの。
「これさえすれば、人生は成功する」とか
「これだけで英会話の達人」とか
「恋愛成功のための100の法則」とか。
つい、「そうしたもの」に縋ってしまう心理が、自分の心の中にある弱い部分なのである。
それに流されてはいけない。
周囲に流されず、常に「自分にとっての普遍の真理を追究する」という核心は不動に持たねばならないと強く感じている。