藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分を計れるか。


自分で働いて生計を立てる社会人なれば当たり前すぎることが、案外分かっていなかったりすること。
企業が突然死すると言われる現在、不幸にしてリストラに遭ったり、また自分の働く会社が潰れることもある。
環境の影響を受けるのは避けがたいことだけれど、環境がどんなに激変しても生き延びれるかどうかは重要な問題である。


企業がリストラを決断し、早期退職者の募集などを実施すれば"デキる人から辞めていく"というのはよく聞く話だ。沈む船にいつまでも乗っている必要はないのだろう。

どこの業界、どこの職種に行っても仕事ができる人とはどういう能力があるのだろう。
恐らくは「自分の仕事の価値」が正確に分かる人なのではないだろうか。

組織には営業部門も開発部門も製造部門も間接部門もあるから、何も直接お金をジャラジャラと稼ぐばかりがしごとではない。
間接部門などでは、そもそも成果を正確に計ることも難しかったりする。
製造部門では新製品の開発が成果なのか、それとも品質が高いことが成果だろうか。

そうして細分化されていくうちに、自分の仕事の価値が段々曖昧になってくる。
そのうち、「自分はこれだけ一生懸命にやっている」とか「これだけ残業している」とか自分の価値観が主軸になり、「本当はどれほどのお役に立っているのか」というメジャーが退化してくるのではないだろうか。
しばしば営業マンが「いい商品がないから売れません」というのが典型で、他部門や第三者に原因を求めると自分自身のことがはっきりとは分からなくなるのではないかと思う。

いずれにせよ、ジャッジする人から「プラスよりコストが勝っている」と判断されたらそれまでだ。
逆にどの会社でも、どの部門でも"プラスであること"を客観的に意識していれば、その人は「なくてはならない人」になる。

当たり前のことのようだけど、結局そうした意識を常に持っているためには「自分のミッションは何か」とか「自分の実績は何によって現れるか」ということを予め考えておいて、それを定量的に計ることが必要である。
自分の存在は「常にブラス」か
「トータルではプラス」か
「トータルではマイナス」か
「常にマイナス」かということは、割合周囲からははっきりと見えていたりするものだ。

常に「その居場所で」プラスにしていくことは社会での生命力の原点なのではないだろうか。