藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

人生の配役。

特に仕事場などでは、先輩・後輩、とかリーダーとか、参謀とか、チャレンジャーとか、経営者とか、誰しもかなり「配役」については気にしている。
さすがに職場で「素のまま、生のまま、赴くまま」に感情むき出しにしてふるまう人はいない。(たまにいるかな)

ところが、プライベートで友人と会うとか、飲むとか。
家族と話をするとか。
夫婦で会話するとか。
趣味のサークルとか。
そんな環境に身を移すと、しばしば「素になっている自分」に気付くのは私だけだろうか。
友達と会っている時くらい、何の気も使わずにいたい、というのもいいけれど、これが家族とかになるとそんな「素のまま」では済まないことも多い。
時にはシリアスな問題について検討し、対処せねばならないこともままある。
時として「私たち、お気に入り同士だもんねー」とばかり言っているいうわけにはいかぬのが仕事場とか、家庭とかなのである。

つまり、自分の人生の主役を演じる「自分」と、「演出家の自分」の存在が求められているのである。

自分が扶養され、親元にいるときや学生時代はそんなことを考えもしなかった。

気の向くままに暮らし、フラフラと進路を決め、親のすねを齧って当然、くらいの鼻息だったことを思い出す。(嘆)

それが社会人になり、また独立してからはしばしば「自分の役割は何だ?」という問いが定期的に頭を巡るようになったのである。

思えば小さな会社といえど、別々の人格が場を共有する組織なわけで、つまり経営者が道筋を示し、話し、またその先を考えねば組織はうまく動かない、ということを肌身に感じたのだと思う。

企業では、リーダーのやらねばならないことは一つだけはっきりしていて、それは「責任を持っ」て、船を「どこかへ」進ませねばならない、ということである。

たとい、傍目からは「あいつ、操舵していないんじゃないのか?」とか「この船、自力で進まずに海流に乗ってるだけなんじゃないか?」と思えても。
(まあ海流を読むのも、なかなか大事なことなんであるが)
そういう推力のようなものが全くなくなると、乗組員は不安を抱き出し、組織の崩壊が始まる。
というか多くの会社では必ず「そういう問題」を少しは孕んでいるものである。

話が逸れた。

そんな「自分の配役」のようなものを、自分は永らく仕事場以外では考えてこなかった。

例えば家族や友人と一緒にいるときには「完全な素」の状態であったと思う。
「ここは一発父親として」とか「嫁に対してはこういう存在でいよう」とか意識したことはなかった。

けれど、小さくとも「組織」である。
だから、その組織の構成員が増えたり・減ったり、成長したり、年老いたり、いろんな風に経年してゆくにつれ、それぞれの役割も段々と変わってくるものである。

カップルが誕生しただけで、最小単位が成立。
それが夫婦になり、家族が増えたり、新たに誕生したり、結構ドラマチックに環境は変化する。

うっかりしていると、「ただ周囲の関係者と、大過なく時を過ごしていればいい」などと思ってしまうが、もう少し戦略的に(演出的に)考えるのも一計であると思う。

あらかじめ、「仕事は今後どうするか」とか「リタイアしたら何処に住むか」とか「夫婦どちらかが病気になったら」とか「子供の就職について」とか「親の介護」とか、周囲にこれから起こるだろうことを考えてみて、仮説を立てておくこともキャスティングを考える上では重要なこと。
何も60歳定年後の年金の計算だけが、将来の設計ではない。
なんと自分の人生を演出するのは、自分自身だったのである。