藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分を鍛えるということ。

大学院生の就職相談。
仕事選びに失敗したくないという。

「損しとかんかい。」
よく、関西の商売人のおっちゃん達から聞いた言葉。
そんなことを今さらながら思い出した。

今にしてよくよく考えてみれば「損が損のまま」つまり「失敗がただの失敗でしかない」ということは案外に少ない。

失敗の数を自慢する学校の先生がいるくらい、失敗はよく起こる。
小学校からの人間関係でも失敗はあるし、
受験でも失敗はするし、
親子関係でも「まずったな」ということなどしょっちゅうだし、
社会に出てからは、職業選びとか人間関係とか、異性関係とか、より「シビアでリアル」な世界での真剣な失敗に遭遇してしまう。

(例えば、はじめてのプレゼンで資料の準備が不足していて大恥をかいた、とか
あるいは、はじめてのプレゼンに緊張して前日眠れず、当日の電車を乗り過ごして文字通り機会が"泡と化した"とか。
自社製品の利点を、聞かれるままに得意げに答えていたら、いつのまにか競合相手にパクられ、模倣されていたとか。)

そうした失敗は苦々しい思い出だけれども、今思い返してみれば「一つ一つ」はかなりの"肥やし"であり、経験値になっていることに気づく。(嘆)

そして、何が言いたいかというと、一番勿体ないのは「損する機会からエスケイプする」ことなのだということである。

自分のプライドも傷つかず、所属する組織にも迷惑をかけず、そうした「迷惑料」ばかりを考えると、「いっそ挑戦しない。逃げる」ということも立派な選択肢に見えてしまうものである。
何も言い出さない人のほうが、向こう傷は少ないのは道理である。
けれどけれど。

実は失敗しなかったこと、から得るものに比べ、大失敗から学ぶことのほうが無限に大きい。

「苦労は買うてでもせよ」と言われて、「誰が買うかいな!」と思っていたが、実はこれはリアルな名言だったのである。

自分には過ぎる、とか経験値がないから無理だ、という判断をし、その機会から逃避することは、実はもっとも本人にとって勿体ない行為だ、ということに若いころは気付かないものである。

だが、40歳も過ぎると、誰もが「そのこと」を知っている。
一見無謀に思えてもチャレンジし、傷つき、謗られ、挫折を味わうことは、そのほとんどの経験がその後の自分の「滋味」になる。

なんとも逆説的な話だが、結果的にはそういうことなのだ。
情けは…ではなく「苦労は人のためならず」なのである。
ぜひ学生の人達にそんな話を聞いてもらいたい。

今後の就職相談ではこの話をしようかと思っている。
全然内定対策とかにはならないですけど。