藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

必ず肥やしにするという気持ち。

現代は正解のない時代、とよく言われる。
確かに自分の進路や選択が、いわゆる正解かどうか?ということは全てがはっきりしているわけではない。
というかはっきりしていないことの方が多いと思う。
なぜだろうか。
選択肢が多くなったということもあるだろう。
社会人になるまででも、
大学や海外へ進学するもよし、すぐに働くもよし、ボランティアするもよし、フリーターで定職に就かずとも'自分探し'と言われる時代である。
企業の世界に入っても選択と集中、とか多角化M&A、とか本業回帰とか分散投資、とかいろいろ。

けれど全体的にGDPが上がり、選択肢が増えたから「正解か否か」が分からなくなったのではなく「検証の仕方」が複雑になったのではなかろうか。
歴史と同様、'今'の検証は後からしかできない。
その後の様子によっては良き選択と思われたものでも、大失敗だった、という可能性はいくらでもある。もちろんその逆も。
だから正解などないのだ、ということではこのお話は締まらない。

結局は日々の数々の選択を「正解にしてゆく力」というものが必要なのではないだろうか。
人間万事塞翁が馬、よろしくどんな経験も「肥し」にならないものはない。
若いころに大病をして有能な医師になったり、不条理な目にあって弁護士にになる人は案外多いものである。
一つ一つの経験を「無駄なこと」とか「単なる気分の良い成功体験」にしない、そうした'消化力'とでもいう力が重要なのではないかと思うのである。
貪欲で、効率的消化力を持っていれば、失敗や恥ずかしい体験も「ただの悪夢の記憶」ではなくなる。

旅の恥はかき捨てず、持って帰って己の肥やしにせよ。

できる人というのは(もともとスーパーマンみたいな人もいるだろうけど)そうした失敗の消化力の強い人、とも言えるのではないだろうか。

そう言えば自分自身に照らしても、日々の生活で起きる数多くのマイナスを「よし消化するぞ」というマインドセットではいられなかったと思う。
心の中で「あーあーダメだなぁ」と落ち込んでいる時間も長い。
反省と消化(フィードバック)は別物なのだ、と意識して日々を送れば、何か態度が変わってくるのではないだろうか。
自身で実験してまたレポートしてみたいと思う。