藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

言葉の質の差。

姜尚中さんの著書はこれまでいくつも拝読したが、この評者である大澤真幸さんのような見識には到底思い至らなかった。
この書評を読んでも、そのすべてを理解することは叶わなかったけれど、それにしてもここ数冊で姜さんの著していた「何か」については、実は深い体験と意味があったのだ、ということだけは分かったように思う。

言葉というのは恐ろしい。
「受け手」の何か「心の深さ」のようなものが、そのまま書き手である著者の「思想の意味」を決めてしまうようなところがある。
同様のことは、歌謡曲を聞いている人が伝統の音楽を理解し得ないような、ある種「分からない人には"意味などない"とすら判断されてしまうような世界なのだと思う。

さらに、キリストの言葉と「それ以外について」。

ある人に言われたときには、「つまらないこと言うな」と感じていたのだが、別の人からに別の機会にほとんど同じようなことを言われたときには、何か深く心に沁(し)みるものがあって、少し世界が開けた気分になった。多くの人には、こういう経験があるだろう(そういうことが、一度もなかったとすると、その人はそうとうに不幸な人だ)。こういうとき、われわれは、キリストと神学徒の間の「永遠の質の差」の断片を感じているのである。

衝撃である。
自分たちも、結局は「経験」とか「知識」をパックポーンに「相手の言葉」を聞いている。
自分と後輩とか、自分と先輩とか、あるいはテレビの中の誰かと自分の親とか、そうした無数の「永遠の質の差」をどこまで自分たちは持ち、あるいは「排除」していけるのだろうか。

この質の差を「排除」することは、すなわち自分の「叡智」とか「経験」を排してしまう、という根本的な矛盾も同時に起こしてしまう。

この書評記事の最後にある「ライフセービング・とデスセービング」の例えにもあるが、結局「理解を深める側」が、絶対的に動かない「死者」とか「歴史」とか「親」とか、そうした過去の「変えようのない存在」をいかに「動的に理解するのか」という、そうした「動的思考の挑戦」ということが、実は我われの生きている上での「人生論」の重要なテーマなのかもしれない、と思った。

"自分の理解態度"が、過去の歴史とか、経験とか、幼児体験とか、あらゆるものを支配し得る、と姜さんは言いたいのではないだろうか。
著書を読んでみて再考したいと思う。

母(オモニ) [著]姜尚中[評者]大澤真幸(社会学者)
■思想家の資質を育んだ母の「呪術の園」

 私は本書の著者、姜尚中さんのある講演のことが忘れられない。多分、姜さん自身はあまりよく覚えていないのではないかと思うが、それを聞いた私の方は、あの講演を一生忘れないだろう。20世紀の最後の年のことだから、あれからもう13年も経っている。マルクス主義系のAという学会の年次大会のシンポジウムの冒頭で、姜さんは基調講演を行った。シンポジウムのテーマは「沖縄」だった。

*2000年の忘れられぬ講演

 会場となった某大学の大教室は、何百人もの研究者で満員だった。ソ連・東欧の社会主義体制が崩壊してから、およそ10年が経っていた。一般の人々に対するマルクス主義共産主義の説得力は、急速に衰えつつあった。マルクスマルクス主義を研究したいと希望する学生は激減していたし、マルクス主義を標榜(ひょうぼう)する政党や政治運動の退潮ぶりは、目を覆いたくなるほどだった。
 しかし、かつては、日本の大学の社会科学系の教員の半分近くはマルクス主義者か、そうでなくてもマルクス(主義)に好意的であった。マルクス主義の人気が下がる中で、そうした大学教員や研究者は危機感を覚えており、あの当時、マルクス主義系の学会や研究会がときどき開かれた。そのたびに中堅以上の研究者がたくさん集まり、大盛況だった。
 あのAの年次大会に多くの研究者が集まったのは、姜さんの講演を生(ライブ)で聞くことができるということだけではなく、マルクス主義のシンパだった研究者に強い危機感があったからでもある。
 姜さんの講演は、当時の石原慎太郎都知事のある「差別発言」に対する強い怒りの表明から始まった。「怒髪天を衝(つ)く」という語は、まさにこういうときのためにある、と姜さんは語った。最終的に議論は、日本の戦前から戦後までずっと継続している「総力戦体制」の下でのコロニアリズムに対する批判に及んだ。彼が講演で示した怒りや情熱は、ほとんど崇高と言ってもよいほどに純粋で、それでいて講演の論旨はきわめて明晰(めいせき)で説得力もあった。会場は、感動で、水を打ったように静かになった。
 しかし、私がこの講演のことを忘れられないのは、講演がすばらしかったからだけではない。実は、その後の展開があったことが大きい。私が冒頭に姜さんは覚えておられないだろうと記したのは、彼が「その後の展開」をご存じないからである。その日、姜さんは別の講演も依頼されているとのことで、シンポジウムの途中で退席した。「その後」とは、姜さんが会場を去った後、という意味である。
 シンポジウムは、姜さんの講演の後も続き、何人かの討論者やコメンテーターが登壇し、発言した。が、しかし、それらは私を、いや出席者の全員を失望させた。とりあえず、内容的には、姜さんの講演をそのまま承(う)けているものなので、前半の姜さんの議論をキャンセルしたり、批判したりするものではなかった。しかし、発言の意味内容上の深刻さとは裏腹に、会全体がとてつもなく呑気(のんき)な雰囲気につつまれていったのだ。姜さんの講演には、当時の石原発言への批判と同時に、その発言に対するマスコミの能天気な反応への批判も含まれていたが、あのときの会場の雰囲気も、その「能天気」という形容にぴったりのものだった。
 ついに、シンポジウムの終盤に至って、会場にいた何人かの一般参加者の中から、強い欲求不満の声があげられた。たとえば、ある人はこう発言した。彼は、この種のイベントに今までたくさん出てきたが、どれもこれも盛り上がりの欠けるつまらないものだったが、冒頭の姜さんの緊迫感あふれる講演から、このシンポジウムだけはこれまでとまったく違ったものになりそうだと、最初、強い期待を抱いた、というのだ。今日の会では、きっとたいへん深い議論が交わされるに違いない、と。ところが、その後の議論はまったく弛緩(しかん)しきっていて、こうした期待を裏切るものであった、と。
 さて、ここからがわれわれの考えどころである。どうして、姜尚中の発言や講演だけ、鬼気迫る力を宿し、人々に強い印象を与えることができたのか。どうして、他の並みいる学者たちの発言は、似たような内容をもっているように聞こえるのに、根本的に呑気なものになってしまったのか。

*キリストと神学徒

 私は、キェルケゴールが『哲学的断片』という著書で書いていることを連想する。この中で、キェルケゴールは、ソクラテスと比較しながらキリストの言葉について論じている。たとえばキリストが「永遠の生がある」と言う。同じように一介の神学徒が「永遠の生がある」と言ったとする。二つの命題には、もちろん、内容的には差異がない。それ自体としてみれば、どちらも同じくらいの深さや正しさをもっている。にもかかわらず、両者の間には「永遠の質の差」がある、とキェルケゴールは説く。
 神学徒の「永遠の生がある」という発言を聞くと、われわれは、「なに、つまらないことを言ってるんだ。そんなことはもう百万遍も聞いた」という気分になる。しかし、キリストが「永遠の生がある」と言うと、人々は強い感銘を受け、人生観や世界観を根本的に変えてしまい、その衝撃は世界史の経路を大きく変更させるほどのものであった。これがキェルケゴールの言う「永遠の質の差」である。何がこの差をもたらすのか。キェルケゴールの答えは、神にして人間であるキリストの特別な質の権威に由来する、というものである。
 ここで、キリストを姜尚中に、神学徒を他の発言者たちに対応させてみるとよい。そんなふうに類比させると、姜さんに「いくらなんでもキリストと比べるのはやめてください、大澤さん。僕は普通の人間です」と言われそうだが、私がここで述べているのは、ほとんどの人が何度か経験していることでもある。ある人に言われたときには、「つまらないこと言うな」と感じていたのだが、別の人からに別の機会にほとんど同じようなことを言われたときには、何か深く心に沁(し)みるものがあって、少し世界が開けた気分になった。多くの人には、こういう経験があるだろう(そういうことが、一度もなかったとすると、その人はそうとうに不幸な人だ)。こういうとき、われわれは、キリストと神学徒の間の「永遠の質の差」の断片を感じているのである。
 それにしても、神=人であるところのキリストに見立てることができる姜尚中の特別な質はどこから来るのだろうか。姜さんが自分の母親のことを書いた、したがって当然自伝的な要素も含む小説『母(オモニ)』は、この点についてあることを教えてくれる。

姜尚中のオモニ

 姜さんの母親、禹順南(ウスンナム)さんは、釜山から西へ50キロほどのところにある鎮海(チネ)というところで生まれた。スンナムさんは、ある理由があって日本名「春子」も好んでいたようだ。ともあれ、スンナムさんは、鎮海で育ち、魚の行商などをしていたのだが、16歳のときに結婚して、単身で日本に渡ってきた。夫となった姜大禹(カンデウ)さん(日本名は永野馨也[ながのけいや])が、当時、東京近郊の軍需工場に勤めていたからである。姜さんの母親が日本に来たのは、太平洋戦争が勃発したのと同じ年のことだった。最初に住んでいたのは巣鴨だったとのこと。
 戦中は、たいへんな苦労があったが、疎開などをしながら東京を離れ、移動し、最終的には、命からがら熊本の地に到達した。熊本で夫の弟、姜さんからみると叔父にあたる姜大成(カンテソン)さんが憲兵をやっていたからである。戦後すぐに、テソンさんは朝鮮半島に戻るが、姜さんの両親は熊本に留まった。いろいろなことがあるのだが、廃品回収の事業でかなりの成功を納め、生活もある程度豊かなものになる。その間、姜さんのお母さんのハルコさんは、2人の子どもを生み、育てた。戦後すぐに生まれた正男と、終戦から5年後に生まれた鉄男(姜尚中その人)である。
 その後も波瀾(はらん)万丈。スンナムさんと姜さんの家族にはいろいろなことがあった。最終的に、スンナムさんが亡くなるまでの全人生が辿(たど)られ、その間に、姜さん自身が経験したことや感じ考えたことも綴(つづ)られている。しかし、ここでそれを要約しても、この本のおもしろさや感動を伝えることはできない。読者には、自分で読んでもらうほかない。

*母の呪術

 印象的だったことを一つだけ紹介しておこう。それは、あの「姜尚中の特別な質」、神学徒に対するところのキリストに比せられる質に関係しているように、私には思えるからである。
 姜さんのお母さんは、文字を読むことができなかった。「姜尚中」と言えば現代を代表する知識人だから、その母親が文字を読めなかったと聞くと驚く人もいるかもしれないが、戦前は、まだ女性には教育は不要という考えが強かったので、さしてめずらしいことではない。ハルコさんは、文字を読めないことを嘆いておられたようだが、実際にやってきたことを見ると、とても頭の良い人だったことがわかる。よほど才覚があって、人から好かれ、信頼される性格でなければ、「在日」の人が、夫や友人と協力して自ら会社を起こし、それなりに成功するはずがない。
 姜さんの家族には、周囲とは異なる習慣があった。ときどき「下関のおばさん」と姜さんたちが呼んでいたムダン(巫女[みこ])を招き、鎮魂の祭儀が執り行われたのだ。実は、姜さんの両親は、結婚して間もなく、男の子を授かった。春男と名付けられたその子は、栄養失調がたたったのか、生後、すぐに亡くなってしまった。姜さんのお母さんが「春子」という名を好んだのは、この「春男」という亡くなった長男を偲(しの)んでいたからであろう。お母さんは、生涯、春男さんのことを思い続けていた。
 命日には毎年、その霊魂を慰めるために儀式がなされた。ムダンがマンジャ(亡者)を呼ぶ悲しい歌声とともに祭儀が始まり、ムダンの数次にわたるプニョン(繰り言)にお母さんは何度も哭(な)きはらし、亡き長男とふたりきりの世界に浸りきっていた、という。
 しかし、姜さんとマサオさんの兄弟は、この儀式を忌み嫌っていた。母親が一時的に別世界に行ってしまったようで不安だったし、周囲に対しては恥ずかしい、と感じていた。しかし2人は、ただ儀式の嵐が終わるのを待っているしかなかった。
 この種の呪術的な儀式は、鎮魂のために命日に行われただけではない。たとえば、姜さんたち兄弟は、友達と一緒に、毎夏、川や水源で水遊びをするのだが、お母さんは、水難事故のことが心配で仕方がない。そこで、夏の初めにいつも、お母さんはムダンを呼んで、「逐鬼(ちくき)」のための呪術的な儀式を行った。
 お母さんは、ムダンたちとともに全身を震わせて踊り出し、ぜぇぜぇと息を切らしながら笹(ささ)の葉で鬼神を追い払うため、家中を練り歩いた。やがて、お母さんは出刃包丁を取り出し、姜さん兄弟の体すれすれに突き刺すような素振りが繰り返される。その間、お母さんの口からは「しゅーっ、しゅーっ……」と不気味な、くぐもった声が漏れて来た。この種の呪術的な儀式では、男たちはまったくの蚊帳の外で、姜さんたち子どもが恐れをなして、お父さんなど大人の男に助けを求めても、彼らはただ部屋の片隅にちんまりと座っているだけで、何もしてくれなかった。
 これで、お母さんとムダンが、「鬼神は出て行った」と確認できればまだよいのだが、それができなかったときには、さらにたいへんなことになる。お母さんとムダンたちは、いよいよ水源にまで出かけていって、そこで鬼神払いの儀礼をやるのだ。そうなると、儀礼は衆人の注目の中で行われることになる。
 翌日、友達からこんなことを言われる。「テツオくん、昨日、ほんなこつ妙な格好ばしたおばさんが、気のふれたごつ踊りよったばい。ありゃ、チョーセンじゃなかや。テツオくんところのおばさんとそっくりだったばい。テツオくんところのおばさんじゃなかとや。そがんだろ」。姜さんは、返す言葉がなく困った。「うっ、うん……。違うど……」

*「チョーセン」をめぐる転回

 私は、これがおもしろく、興味を惹(ひ)くエピソードだから紹介しているのではない。「姜尚中」という知識人の力の根源を知る、ある手がかりがここに(も)あるから、この話を少していねいに引いてみたのだ。
 言うまでもなく、この祭儀は、朝鮮半島の田舎、近代化される前の土俗的な共同体の呪術的な宇宙に由来するものである。姜さんの社会科学者としての初期の仕事は、マックス・ウェーバーの研究で、これはこれで一流のアカデミックな業績に属するのだが、そのウェーバーの用語に「呪術の園 Zaubergarten」という語がある。ウェーバーによると、近代化とは合理化のことであり、合理化の最も重要な部分は、この呪術の園からの脱出(世界の脱呪術化 Entzauberung der Welt)である。しかし、姜さんのお母さんの身体には、呪術の園に深く深く根ざした感受性が宿っていて、生涯、これは消えなかった。
 姜さんは、この呪術の園に嫌悪感を抱いていて、これに強い羞恥(しゅうち)の感覚をもっていた。小学生のテツオくんは、友達がお母さんのことを話題にするのを恐れていたという。「チョーセンという言葉の響きが、その頃のわたしには、卑猥(ひわい)な隠語のように思えてならなかった」と。後に、ウェーバーの研究に取り組むことにもなる姜尚中が、テツオと呼ばれていた少年の頃から、このような前近代的アスペクトに違和感をもっていたのは、実に納得がいく。
 だがしかし――ここからが肝心である――姜尚中は、このような呪術と一体化している原初の感性を、完全に否認しているわけではない。いや、まったく逆である。彼は、最終的にはこれを全面的に肯定し、自分もまたそれを継承しているという事実を引け受けている。私は、そのように読む。さもなければ、お母さんのことをこんなに深い愛情をもって、すべて書けるはずがない。
 本書には、どのようにして永野テツオが姜尚中に変わったのか、という過程が描かれている。別の著書『在日』でも書かれていたことだが、この転換は、本書で最も感動的で興味深いシーンの一つでもある。この転換は、怪しげな呪術の闇に繫(つな)がっている卑猥な隠語だった「チョーセン」が、姜さんにとって肯定的な契機へと止揚された瞬間でもあるだろう。
 ここにこそ、姜尚中という知識人の、他にはない独特の質が何に由来しているかを考えるためのヒントがある。一方に、原初の共同体の感性につながる呪術的な世界への違和感が、確かにある。しかし、他方で、そうした違和感をも込みにして、それを全面的に肯定する態度がある。この両義性が重要である。単に、前近代的な土俗のアスペクトを、そのまま否定の契機をはらまずに、まっすぐ継承するだけではたいしたことにはならなかったと思う。しかし、他方で、そうしたアスペクトをただ拒否し、そんなものとは無縁であるかのように振る舞ったとしたら、やはり、姜尚中は本質的な知識人にはなれなかっただろう。重要なのは二重性、違和感はあるが最終的には肯定するという二重性である。

姜尚中の三つの層

 私が思うに、姜尚中という知識人は、三つの層から成り立っている。それらの層の間には、実は葛藤や矛盾があるのだが、姜さんは、それらの一つを選び他を拒絶するという態度を取らず、それらをすべて肯定的に引き受けている。ということは、逆に言うと、どの層に全面的に同一化することに対しても、彼は違和感をもっているのだ。三つの層は、しかし、同時にその違和感を超えて肯定的に受容されてもいる。三つの層のそれぞれに、ここまで見て来た母親の「呪術の園」に対するのと同じ形式の二重性をもって対しているのだ。
 三つの層とは何か。第一に、前近代的な共同体の世界、つまり「呪術の園」に、恐れを感じつつも魅惑される層がある。第二に、マックス・ウェーバーや近代世界システム論を研究する近代的知識人としての層、市民社会の正統な擁護者としての層がある。第三に、理論的にはポストモダンの思想も支持しつつ、実践的には、先端的なメディアの注目の中で、自己表現する術をもった言論界のリーダーとしての層がある。要するに「前近代/近代/ポストモダン」という三つの層があるのだ。姜尚中は、どの層に対しても、「これは違う」「これだけではない」という違和感を抱いているが、だからといって、それらのいずれを捨てることなく、引き受けている。層の間には強い緊張感を孕(はら)んだ葛藤があるが、その葛藤ごと肯定されている。
 これが姜尚中という思想家なのだな、と私は思う。あの13年前のシンポジウムで、多数の「神学徒」の中で、姜さんだけが「キリスト」の力を発揮した原因は、この三層のトータルな、否定を媒介にした肯定にあったのではないか。どれか一つの層だけが「本来の自分」であるかのようにふるまい、他を欺瞞(ぎまん)的に排除してしまえば、つまり他の層は自分にはないかのようにうそぶいていれば、凡庸な神学徒のように語ることになっていただろう。

*デス・セービング

 つい最近上梓(じょうし)されたばかりの、もう一つの姜さんの小説『心』にも一言ふれておこう。これは、『母』とはずいぶん違った趣の小説、大学教授である姜尚中が、ある大学生とメールでやりとりしながら、その大学生からの問いかけや相談に応える、という形式の小説である。「姜尚中先生」が実に誠実に、率直に、大学生の悩みに答えていて、この小説も感動的なのだが、本欄は、電子書籍化した書物を批評することを趣旨としているので、こちらの小説については、『母』と関係がある側面についてだけ論じておく。
 『心』の重要な主題は「死」である。姜尚中が、読者だという大学生から手紙を直接手渡されるところから、小説は始まる。その手紙には、20歳になったばかりの親友が病死してしまったことがきっかけになって、なぜその親友が死ななくてはならなかったのか、誰もが無意味に生まれ死ぬのならば、いったい何のための生なのか、という問いが記されていた。
 この小説の中で、姜尚中先生は、生者だけではなく、死者をこそ救わなくてはならない、と書いている。「ライフ・セービング」という言葉があるが、実は「デス・セービング」も必要だ、と。死者を救うこと、たとえば海に沈んだ遺骸を引き上げることで、死者は「輝くような過去をもった永遠の人になる」のだ、と。
 さらに、次のような趣旨のことも書かれている。死者を救うことで、今度は救った生者が死者に救われる、と。死者から「生きよ」というメッセージを受け取るからである。
 実は、『心』で、姜さんは夭折(ようせつ)した自分の息子のことを思っている。メールでやり取りする西山直広くんという大学生は、息子さんと二重写しになっているのだ。『心』は、死者としての息子を救う試みであると同時に、その息子から姜さんが勇気をもらう物語でもある。
 そして、『母』は、もちろん、亡くなったお母さんを「輝くような過去をもった永遠の人」とする作品であり、そして、姜さんは、あるいはその読者は、そのお母さんから「生きよ」というメッセージを受け取ることにもなるだろう。『母』や『心』といった小説は、姜さんのお母さん、スンナムさん、春子さんが、春男のために毎年やっていた鎮魂の祭儀の、姜尚中的な反復でもある。

姜尚中からのメール

 『心』の中の姜尚中が、大学生に宛てて書いたメールを読んでいたら、私は、数年前、姜さんからもらったメールを思い出した。
 私は、一緒に本を編集したり対談したり、と何度か姜さんとは仕事をしてきたので、メールや電話を交わしたことはあったのだが、それまでのやり取りは、当然のことながら、主として、仕事に関係した事務的なものだった。しかし、あのときには、私は、姜さんから、実に心のこもった、柔らかい肉声を直接に聞くかのようなメールをいただいた。私的なものなので内容の紹介は控えたいが、あのとき私は、大きな個人的な苦境の中にあって、それを察した姜さんは、思いを伝えてくださったのだ。それによって、どんなに勇気づけられたかしれない。あらためて、姜さんのことを「すごい人だな」と思ったものである。小説の中の大学生、直広くんが姜尚中先生からのメールに感激したのは、だから、私にはよくわかる。
    *
 姜尚中さんはこの3月、定年まで少し残して東京大学を退職した。新聞報道によると、姜さんは聖学院大学の学長の職に就くのだという。
 東大での最終講義で、姜さんは、丸山真男の言葉「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」に託して、「東北アジアの虚妄にかける」と宣言した。学長という職は、この虚妄への賭けにとって、とても有利なポジションであるように思う。私たちは、これから10年の姜さんの活動に期待してもよいのではないか。彼なら、確実に何かをやる。虚妄を実在へと転換する何かを、である。