藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

made in japan 再び。

日経ウォールストリートジャーナルの記事より。
アップルのi-Phone誕生秘話だが、それにしても四億台を超える販売された製品の細かな仕様が、たった一人のカリスマによって決定され、生み出されていたという事実に改めて驚いた。
ITというか、特にソフトウェア製品は「個別の部の寄せ集め」が直ちに製品として仕上がらない、というのは不文律のようなところがあるけれど、i-Phoneのようなハードウェア製品でそのような厳しい製品化が行われていたのは、だから他のアンドロイド端末にはないユーザの支持を得たのだ、としごく納得がいく。

それにしてもこういった物造りの執念、のようなものは日本人の得意とするところだったはずで、近い将来、必ずメイドインジャパンの時代が来るという気がしている。
まだまだ勝負はこれからなのではないだろうか。

明かされるiPhone誕生秘話、ジョブズ氏の最後通告も

ウォール・ストリート・ジャーナル 3月26日(水)16時22分配信

 2005年2月、アップルの最高経営責任者(CEO)だったスティーブ・ジョブズ氏はシニアソフトウエアエンジニアのグレッグ・クリスティー氏に最後通告を突きつけた。

 クリスティー氏のチームは、後に「iPhone(アイフォーン)」となるl製品向けソフトの開発で、何カ月もビジョンを示しあぐね、各部分の機能をどうまとめるか決めかねていた。そこにジョブズ氏から、チームの持ち時間はあと2週間で、無理ならプロジェクトは別のグループに任せると告げられた。

 現在もアップルのユーザーインターフェースチームを率いるクリスティー氏は、ジョブズ氏のビジョンがかなり固まっていたと述べ、「より大きなアイデアとより大きなコンセプトを要求された」とふり返った。

 クリスティー氏のチームはアイフォーンの機能を多数生み出した。スワイプによるロック解除、アドレス帳からの電話、タッチパネル式の音楽プレーヤーなどだ。アイフォーンは、当時の高度な機種でよく使われていたキーボード方式を捨ててサーフェス全体を覆うディスプレーを採用し、よりパソコンのプログラムに近いソフトも搭載した。

 同氏はこれまで、アイフォーン開発初期の状況について公に話したことはない。しかし、アップルは韓国のサムスン電子との新たな特許裁判を控え、同氏への接触を認めた。アイフォーンが発売された07年当時、この製品がどれだけ画期的だったかを示すという法廷戦略の柱を強化する狙いとみられる。

 以来、アップルが販売したアイフォーンは4億7000万台を上回る。アイフォーンの特許について、アップルとサムスンは世界中で裁判を繰り広げている。アップルは自社のデザインやソフトの機能をサムスンが模倣したと訴え、サムスンはアイフォーンや「iPadアイパッド)」の発明の多くはアップル独自のものではないと主張している。

 カリフォルニア州サンノゼの米連邦地方裁判所で先に行われた裁判で、サムスンはアップルの別の特許侵害で9億3000万ドル(約950億円)の支払いを命じられた。サムスンは上訴している。

 次の裁判は31日に始まる。アップルはクリスティー氏が発明者として名を連ねる「スライドによるロック解除」機能など、さらに5つの特許をサムスンが侵害したと訴えている。一方のサムスンは、自社の特許2件をアップルが侵害したと主張している。損害賠償金はこれまでの裁判より多額になるかもしれない。今回の裁判では、販売台数の増えた、より新しい製品で使われている機能が対象になっているためだ。

 サムスンの広報担当者はコメントを控えた。

 クリスティー氏がアップルに入社したのは1996年。短命に終わったタッチペン式の携帯情報端末PDA)「ニュートン」の担当だった。ニュートンは余りに重く高価で、ソフトが複雑すぎた。この失敗にもかかわらず、クリスティー氏はポケットサイズの強力なコンピューター機器への関心を失わなかった。

 04年遅く、クリスティー氏がパソコン「Macintoshマッキントッシュ)」向けのソフトを開発していると、ソフトウエアチームの上級メンバーだったスコット・フォーストール氏がオフィスに入ってきた。ドアを閉め、秘密プロジェクト「パープル」に参加したいかどうか聞いた。音楽プレーヤーを組み入れたタッチスクリーン式の電話を開発するという。

 そのときまでに、ジョブズ氏はアップルをよみがえらせ、「iPodアイポッド)」などの主要製品に軸足を置いていた。iPhoneiOS製品販促担当副社長グレッグ・ジョスウィアック氏は、音楽プレーヤーを搭載した他社の携帯電話がアイポッドを脅かす兆しがないかどうか監視していた。

 クリスティー氏のチームは、スクロールに最適なスピードや、リストの最後に来たときに自然な感じで元に戻す方法など、細部を検討していた。同氏によればチームは、時間別に並んだ個々のメッセージを、コンピューター上のインスタントメッセージに似た会話風のまとまりに転換する方法をめぐり、「壁に頭を打ち付けていた」という。

 クリスティー氏はまた、このチームが「衝撃的なほど小さい」ものだったと述べた。アップルは、人数を特定することを控えた。

 数カ月にわたり、同氏はアップル本社(カリフォルニア州クパチーノ)2階の会議室で、ジョブズ氏に対するプレゼンテーションを毎月2回行った。窓のないこの部屋に入室できた従業員は一握りで、清掃員は入室を認められなかった。

 クリスティー氏のチームがアイフォーンのビジョンでようやくジョブズ氏に強い印象を残した翌日、同じプレゼンを同氏の盟友ビル・キャンベル取締役に対して行う羽目になった。クリスティー氏によると、キャンベル氏は元祖マッキントッシュより良さそうだと述べた。キャンベル氏はコメント要請を求める電話に応答していない。

 数日後、チームはジョブズ氏の指示で3度目のプレゼンをした。今度は会社のデザイン責任者ジョニー・アイブ氏が相手だ。アイブ氏のチームはガラスをデザインしていた。

 各プレゼンでは、ジョブズ氏が説明の多くを引き受け、自身のストーリーを作り出した。クリスティー氏は、ジョブズ氏の「興奮は尽きなかった」と話した。

 尽きなかったのは守秘に対する要求も同じだ。ジョブズ氏は自宅でこのプロジェクトに携わっていた従業員に対し、うっかり誰かに詳細を見られることがないよう、家の中の隔離された場所でコンピューターを使うよう命じた。また、開発中の製品のデジタル画像は暗号化するよう従業員に命じた。

 05年早期にゴーサインが出て、クリスティー氏の言う「2年半のマラソン」の幕が切って落とされた。ボイスメールをチェックする方法からカレンダーの表示方法まで、あらゆる部分を考え直す作業もあった。ジョブズ氏はあらゆる詳細にこだわった。

 ジョブズ氏はアイフォーンを正式発表する少し前の06年終盤、画像をスクロールする際の「カバーフロー」機能を説明するにはどのアルバムが最適かとクリスティー氏に訪ねた。ジョブズ氏は、たくさんの顔が並ぶ明るい色のアルバムジャケットを使って製品のディスプレーを自慢したかった。だが、音楽は「スティーブの音楽」でなくてはならない。結局ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に決まった。

 その後07年6月のアイフォーン発売までの半年間、クリスティー氏のチームは他の変更を加えた。例えば、電子メールの送信者を一方に、もう一方に本文を表示する画面分割機能は、ジョブズ氏に促されて取りやめた。クリスティー氏によればジョブズ氏は、「そんな小さなディスプレーでスクリーンを分割するのはばからしいと考えた」という。

 アイフォーン発売からほぼ7年、クリスティー氏は特に印象に残っている瞬間を挙げた。ジョブズ氏の基調講演の数日前、2つのセキュリティーバッジを使ってサイドドアから会場に入り、厚いカーテンを引いたときのことだ。暗い室内のスクリーンに巨大なアイフォーンの待受画面が映し出されていた。その瞬間、この製品がどれほど大きいかを理解したという。

 クリスティー氏は、それが「広いスペースで光を発していた」とし、「心臓の鼓動が乱れ、『これは現実に起こっていることだ』と思った」と話した。

DAISUKE WAKABAYASHI