藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

時間考。

ふしぎ。
不思議である。
これまで生きてきた中でも最大の不思議かも知れぬ。
時間の感覚。
「若さの特権」というか若者の最強な部分はこの「時間の意識」を「意識しないでいられる」ということではないだろうか。

「残りの時間」についての恐怖が、まだ彼らにはないのである。

それにしても。
朝、急いで支度している時間はたちまちに過ぎるし、
退屈な待ち時間の時間はあまりに遅く感じる。
一人で好きな酒肴を愉しんでいるときの時間はゆったりしているが、
仲間と歓談している時間はあっという間に経ってゆく。

ジャネの法則よろしく、自分が生きてきた「五十年に対しての今年の一年」と、十歳の若者の「今年の一年」では相対感覚が違う、というのはよくわかる説明ではある。
それにしても、心を奪われ、熱中しているときは文字通り「時間を忘れる」し、そもそも自分たちは時間を「過ごしている」のか、それとも時間が「過ぎている」のか。

どちらが主体で、どちらが客体なのか。
そんなことも分からなくなってくる。
それほど「時間の概念」というのは面白いし、またいろいろと試みをしたくなる存在でもあるのではないだろうか。

今日、明日の一日を「どのような時間」にするのか。
今年一年、来年、そしてここ十年をどのように過ごすのか。
残りのウン十年をどのように使うのか。

自分自身の「制約条件」もあるけれど、どのように過ごすかは全く自分次第。
そんなある意味で残酷な「絶対的なもの」が時間という存在なのである。
焦らず。
じたばたせず。
これからの"時間"を考えたい心境になりました。