藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

[次の世代に]年輪の使い方。

年を取ると分かってくること。
何よりも、時を経た「年よりの経験値」。
なかなか、同分野で「それ」に勝るものはない。
そしてその経験値は、ただその潜在力だけではなく、その持っている人の人間力、つまり胆力とか、迫力とかいう「さらに具体的に表現しにくいもの」に通じてゆく。

よく若手のとても優秀なビジネスマンが「年輪にはかないませんよ」と口にするが、それがまさにこれである。
若さとか体力とか、気迫とか、年をとるにつれ失われてゆくもののの代わりに、蓄積されてくるものは確かにある。

ただ年を重ねるだけでも「あるもの」は積もってゆくが、それにさらに「アプリケーション」が加わると、これはまた恐ろしい。
(それこそが年輪、の正体だろうか)

「経年+特定スキル」の合わせ技になるわけで、さらに強みが増す。

さらにそれに「使命感」、つまり社会貢献とか、奉仕とか、次世代への投資目標とか、そういう「未来への活力」が加味されるとその強さは倍加すると思う。

結局、人はそうしたモチベーションを動力にして行動している生き物であると思う。
ただ食べる、とかただ儲ける、とかただ奉仕する、ということではなく「そこ」に意味を見出すのが人なのだろう。
そして、だからこそ「なにをするのか」とか「なぜするのか」とかいう”意味付け”に重きを置く。
がむしゃらに働くことも大事だけれど、そうした「そもそも論」的なことを中年以降は考えつつ「その後の老後」を過ごす指針にせねばならない。
せっかく積んできた「自分の年輪」はぜひとも自分の希望で消費してゆきたいものだと思うのである。